る。室内の調度は、寝台の側に大|酒甕《さけがめ》形の立|卓笥《キャビネット》があるのみで、その上には、芯の折れた鉛筆をつけたメモと、被害者が臥《ね》る時に取り外したらしい近視二十四度の鼈甲《べっこう》眼鏡、それに、描き絵の絹|覆《シェード》をつけた卓子灯《スタンド》とが載っていた。近視鏡もその程度では、ただ輪廓がぼっとするのみのことで、事物の識別はほとんど明瞭につくはずであるから、それには一顧する価値もなかった。法水は、画廊の両壁を観賞してゆくような足取りで、ゆったり歩を運んでいたが、その背後から検事が声をかけた。
「やはり法水君、奇蹟は自然のあらゆる理法の彼方にあり――かね」
「ウン、判ったのはこれだけだよ」と法水は味のない声を出した。「まるで犯人はテルみたいに、たった一矢で、露《む》き出しよりも酷い青酸を、相手の腹の中へ打《ぶ》ち込んでいるだろう。つまり、その最終の結論に達するまでに、光と創紋を現わすものが必要だったという事だ。云わばあの二つと云うのは、犯行を完成させるための補強作用であって、その道程に欠いてはならぬ、深遠な学理だとみて差支えない」
「冗談じゃない。あまり空論も度が過ぎるぜ」と熊城は呆れ返って横槍を入れたが、法水は平然と奇説を続けた。
「だって、鍵を下した室内に侵入して来て、一、二分のうちに彫らねばならない。そうなると、クライルじゃないがね。無理でも不思議な生理を目指すより仕方があるまい。それに、疑問はまだ、後へ捻《ねじ》れたような右手の形にも、それから、右肩にある小さな鉤裂きにもあるのだ」
「いや、そんなことはどうでもいいんだ」熊城は吐きだすように、「腹ん這いで洋橙《オレンジ》を嚥《の》み込んで、瞬間無抵抗になる――たった、それだけの話なんだよ」
「ところがねえ熊城君、アドルフ・ヘンケの古い法医学書を見ると、一人の淫売婦が、腕を身体の下にかって横向きになった姿勢のままで毒を仰いだのだが、瞬間の衝撃《ショック》を喰《くら》うと、かえって痺《しび》れた方の腕が動いて、瓶《びん》を窓から河の中へ投げ捨てたと云う面白い例が載っているぜ。だから一応は、最初の姿体を再現してみる必要があると思うね。それから死体の光は、アヴリノの『聖僧奇蹟集』などに……」
「なるほど、坊主なら、人殺しに関係あるだろう」と熊城は露骨に無関心を装ったが、急に神経的な手附になって、
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