瘻O一帯に拡がっている闇の中で、何が見えたのだろうか。その無数に林立している壁灯の残像と云うのが、ほかでもない、ファルケの歌ったあの薄気味悪い樺の森なんだよ。しかも、クリヴォフ夫人は、それを自ら告白しているのだ」
「冗談じゃない。あの女の腹話術を、君が観破したとは思わなかったよ」と熊城は力なく莨《たばこ》を捨てて、心中の幻滅を露わに見せた。それに、法水は静かに微笑んで云った。
「ところが熊城君、あるいはあの時、僕には何も聴えなかったかもしれない。ただ一心に、クリヴォフ夫人の両手を瞶《みつ》めていただけだったからね」
「なに、あの女の手を」今度は検事が驚いてしまった。「だが、仏像に関する三十二相や密教の儀軌《ぎき》についての話なら、いつか寂光庵《じゃっこうあん》([#ここから割り注]作者の前作、「夢殿殺人事件」[#ここで割り注終わり])で聴かせられたと思ったがね」
「いや、同じ彫刻の手でも、僕はロダンの『寺院《カテドラル》』のことを云っているのだよ」と相変らず法水はさも芝居気たっぷりな態度で、奇矯に絶した言《ことば》を曲毬《きょくまり》のように抛り上げる。「あの時、僕が樺の森を云いだすと、クリヴォフ夫人は、両手を柔《やん》わり合掌したように合せて、それを卓上に置いたのだ。勿論密教で云う印呪《いんじゅ》の浄三葉印ほどでなくとも、少なくもロダンの寺院《カテドラル》には近いのだ。ことに、右掌《みぎて》の無名指を折り曲げていた、非常に不安定な形だったので、絶えずクリヴォフ夫人の心理からなんらかの表出を見出そうとしていた僕は、それを見て思わず凱歌を挙げたものだ。何故なら、セレナ夫人が『樺の森』と云っても微動さえしなかったその手が、続いて僕がその次句で、されど彼夢みぬ――と云って、その男[#「その男」に傍点]という意味を洩らすと、不思議な事には、その不安定な無名指に異様な顫動《せんどう》が起って、クリヴォフ夫人は俄然|燥《はしゃ》ぎだしたような態度に変ったからだ。恐らく、そこに現われている幾らかの矛盾撞着は、とうてい法則では律することの出来ぬほど、転倒したものだったに相違ない。だいたい、緊張から解放された後でなくては、どうして、当時の昂奮《こうふん》が心の外へ現われなかったのだろうか」とそこでちょっと言葉を切って窓の掛金をはずし、一杯に罩《こ》もった烟《けむり》が、揺ぎ流れ出てゆ
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