に関する一例が挙げられている。すなわち一八九三年三月、低バイエルン、ディートキルヘンの教師ブルネルの宅において、二児が殺害され、夫人と下女は重傷を負い、主人ブルネルが嫌疑者として引致されたという事件である。ところが、夫人は覚醒して、訊問調書に署名を求められると、マリア・ブルネルとは記さずに、マリア・グッテンベルガーと書いたのであった。しかし、グッテンベルガーと云うのは、夫人の実家の姓でもなく、しかもそれなりで、夫人は記憶の喚起を求められても、その名については知るところがなかった。つまりその時以来、意識の水準下に没し去ったのである。ところが、調査が進むと、下女の情夫にその名が発見されて、ただちに犯人として捕縛さるるに至った。すなわち、マリア・グッテンベルガーと書いた時は、兇行の際識別した犯人の顔が、頭部の負傷と失神によって喪失されたが、偶然覚醒後の朦朧状態において、それが潜在意識となって現われたのである。
[#ここで字下げ終わり]

「マリア・ブルネル……」だけで喚起したものがあったと見え、三人の表情には一致したものが現われた。法水は、新しい莨《たばこ》に口をつけて続けた。
「だから乙骨君、僕が伸子の、開目の際を条件としたのも、つまるところは、マリア・ブルネル夫人と同じ朦朧《もうろう》状態を狙《ねら》い、あわよくば、まさに飛び去ろうとする潜在意識を記録させようとしたからなんだよ。ところが、やはりあの女も、法心理学者の類例集《カズイステイク》から洩れることは出来なかったのだ。ねえ、伸子の先例は、オフィリアに求められるのだろうね。しかしオフィリアの方は、単に狂人《きちがい》になってから、幼い頃乳母から聴いた――(あすはヴァレンタインさまの日)の猥歌《ざれうた》を憶い出したにすぎない。ところが、伸子の方は、降矢木というすこぶる劇的《ドラマチック》な姓を冠せて、物凄い皮肉を演じてしまったのだよ」
 その署名には、恐ろしい力で惹《ひ》きつけるようなものがあった。しばらく釘付けになっているうちに、まず直情的な熊城《くましろ》が気勢を上げた。
「つまり、[#ここから横組み]グッテンベルガー=降矢木旗太郎[#ここで横組み終わり]なんだ。これで、クリヴォフ夫人の陳述が、綺麗《きれい》さっぱり割り切れてしまうぜ。サア法水君、君は旗太郎の不在証明《アリバイ》を打ち破るんだ」
「いや、この評
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