だけを、ちょうどジーグフリードの木の葉のように残しておくのだ。何故なら、失神中は皮膚の触覚を欠いていても、内部の筋覚や関節感覚、それに、擽痒《かゆみ》の感覚には一番刺戟されやすいのだからね。すると、当然その場所に、劇烈な擽痒《かゆみ》が起る。そうしてそれが電気刺戟のように、頸椎神経の目的とする部分を刺戟して、指に無意識運動を起させるに違いないのだ。つまりこの一つで、伸子がいかにして鎧通しを握ったか――という点に、根本の公式を掴んだような気がしたのだ。乙骨君、君は故意か内発かと云ったけれども、僕は、故意かエーテルに代る何物かと云いたいんだ。どうして、その本体を突き詰めるまでには、まだまだ繊細微妙な分析的神経が必要なんだよ」と彼の表情に、みるみる惨苦の影が現われてゆき、打って変って沈んだ声音で呟《つぶや》いた。
「ああ、いかにも僕は喋《しゃべ》ったよ。しかし、結局廻転椅子の位置は……あの倍音演奏はどうなってしまうんだ?」
 そうしてから、しばらく法水は煙の行方を眺めていて、発揚状態を鎮めているかに見えたが、やがて乙骨医師に向って、話題を転じた。
「ところで、君に依頼しておいたはずだが、伸子の自署をとってくれただろうか」
「だがしかしだ。これには充分質問例題とする価値があるぜ。何故《どうして》君は、伸子が覚醒した瞬間に、自分の名前を書かせたのだったね」と云って、乙骨医師が取り出した紙片に、俄然三人の視聴が集められてしまった。それには、紙谷《かみたに》ではなく、降矢木《ふりやぎ》伸子と書かれてあったからだ。法水はちょっと瞬《またた》いたのみで、彼が投じた波紋を解説した。
「いかにも乙骨君、僕は伸子の自署が欲しかったのだ。と云って、なにも僕はロムブローゾじゃないのだからね。水精《ウンディネ》や風精《ジルフェ》を知ろうとして、クレビエの『筆蹟学《グラフォロジイ》』までも剽竊《ひょうせつ》する必要はないのだよ。実を云うと、往々失神によって、記憶の喪失を来す場合がある。それなので、もし伸子が犯人でない場合に、このまま忘却のうちに葬られてしまうものがありゃしないかと、実は内々でそれを懼《おそ》れていたからなんだよ。ところで、僕の試みは、『マリア・ブルネルの記憶』に由来しているんだ」

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(註)ハンス・グロスの「予審判事要覧」の中に、潜在意識
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