ないのです」
「いやけっして」と法水は、諭すような和やかな声音《こわね》で、「だいたい日本の民法では、そういう点がすこぶる寛大なんですから」
「ところが駄目です」と旗太郎は蒼ざめた顔で、キッパリ云い切った。「何より、僕は父の眼が怖ろしくてならないのです。あのメフィストのような人物が、どうして後々にも、何かの形で陰険な制裁方法を残しとかずにはおくものですか。きっとグレーテさんが殺されたのだって、そういう点で、何か誤ちを冒したからに違いありません」
「では、酬いだと云われるのですか」と熊城は鋭く切り込んだ。
「そうです。ですから、僕が云えないという理由は、十分お解りになったでしょう。そればかりでなく、第一、財産がなければ、僕には生活というものがないのですからね」と平然と云い放って、旗太郎は立ち上った。そして、提琴奏者《ヴァイオリニスト》特有の細く光った指を、十本|卓子《テーブル》の端に並べて、最後に彼はひどく激越な調子で云った。
「もうこれで、お訊ねになる事はないと思いますが、僕の方でも、これ以上お答えすることは不可能なのです。しかし、この事だけは、はっきり御記憶になって下さい。よく館の者は、テレーズ人形のことを悪霊だと申すようですが、僕には、父がそうではないかと思われるのです。いいえ、確かに父は、この館の中にまだ生きているはずです」
旗太郎は、遺言書の内容にはきわめて浅く触れたのみで、再度鎮子に続いて、黒死館人特有の病的心理を強調するのだった。そうして陳述を終ると、淋しそうに会釈してから、戸口の方へ歩んで行った。ところが、彼の行手に当って、異様なものが待ち構えていたのである。と云うのは、扉の際まで[#「際まで」は底本では「際まる」]来ると、何故かその場で釘付けされたように立ち竦《すく》んでしまい、そこから先へは一歩も進めなくなってしまった。それは、単純な恐怖とも異なって、ひどく複雑な感情が動作の上に現われていた。左手を把手《ノッブ》にかけたままで、片腕をダラリと垂らし、両眼を不気味に据えて前方を凝視しているのだった。明らかに彼は、何事か扉の彼方に、忌怖《きふ》すべきことを意識しているらしい。がやがて、旗太郎は、顔面をビリリと怒張させて、醜い憎悪の相を現わした。そして、痙《ひっ》つれたような声を前方に投げた。
「ク、クリヴォフ夫人……貴女は」
そう云った途端に、扉《
前へ
次へ
全350ページ中125ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小栗 虫太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング