うな」
「鎮魂楽《レキエム》※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」と鎮子は怪訝《けげん》な顔をして、「だが、あれを見て、いったいどうなさるのです?」
「それでは、まだ御存じないのですか」法水はちょっと驚いた素振を見せたが、厳粛な調子で云った。
「実は、終曲《フィナーレ》近くで、二つの提琴《ヴァイオリン》が弱音器を付けたのですよ。ですから、かえって私は、ベルリオーズの幻想交響楽《シンフォニカ・ファンタジア》でも聴く心持がしました。たしかあれには、絞首台に上った罪人が地獄に堕ちる――その時の雷鳴を聴かせるというところに、雹《ひょう》のような椀太鼓《ティムパニー》の独奏《ソロ》がありましたっけね。そこに私は、算哲博士の声を聴いたような気がしたのです」
「マア、とんでもない誤算ですわ」と鎮子は憫笑《びんしょう》を湛えて、
「あれは、算哲様の御作ではございません。威人《ウェルシュ》の建築技師クロード・ディグスビイ自作ものなのです。とにかく、あんなものをお気になさるようじゃ、もう一人|死霊《おばけ》がふえた訳ですわね。ですが、貴方の対位法的推理にぜひ必要なものなら、なんとか捜し出してまいりましょう」
 法水がしばらく自己を失っていたのも、けっして無理ではなかった。彼がジョン・ステーナー([#ここから割り注]今世紀の当初病歿した牛津(オックスフォード)の音楽科教授[#ここで割り注終わり])の作と推測し、それに算哲が、何かの意志で筆を加えたものと信じていた鎮魂曲《レキエム》が、人もあろうに、この館の設計者ディグスビイの作だったのだ。帰国の船中|蘭貢《ラングーン》で投身したと云われる威人《ウェルシュ》の建築技師が、この不思議な事件にも何か関係《かかわり》を持っているのではないのだろうか。しかし法水が、最初から死者の世界にも、詮索を怠らなかったことは、さすがに烱眼《けいがん》であると云えよう。
 鎮子が原譜を探している間、法水は書架に眼を馳《は》せて、降矢木の驚嘆すべき収蔵書を一々記憶に止めることが出来た。それが、黒死館において精神生活の全部を占めるものであることは云うまでもないが、あるいはこの書庫のどこかに、底知れない神秘的な事件の、根源をなすものが潜んでいないとも限らないのである。法水は背文字を敏速《すばや》く追うていって、しばらくの間、紙と革のいきれるような匂いの中で陶酔していた。
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