で御座います」
「所が、その時とうに、御主人は玄白堂の中で屍体になってた筈なんですがね」
「それを私にお訊ねになるのは無理で御座いますわ」柳江には全然無反響だった。「決して、虚偽《いつわり》でも幻覚でも御座いませんのですから」
「すると、扉が開かれていた事になる」熊城が誰にともなしに云った。「慈昶はピッタリ閉めて出たと云うのだがね」
「屹度、護摩の煙が罩もったからだろう」法水は大して気にもせず質問を続けた。「所で、その時何か変った点に気が付きませんでしたか?」
「ただ、護摩の煙が大分薄いな――と思った位の事で、主人は行儀よく坐って居りましたし、他には何処ぞと云って……」
「では、帰りにはどうでした?」
「帰り途は、薬師堂の裏を通りましたので……。それから十一時半頃でしたが、主人の室の方で歩き廻るような物音が致しました。私は、その時戻ったのだと信じて居りましたのですが」
「跫音※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」法水は強い動悸を感じたような表情をしたが、「然し、寝室の別なのは?」
「それには、この二月以来の主人をお話しなければなりませんが」と柳江は漸と女性らしい抑揚になって、声を慄わせた。「その頃から、何か唯事でない精神的打撃をうけたと見えまして、昼間は絶えず物思いに耽り、夜になると取り止めのない譫言を云うようになりました。そして身体に眼に見えた衰えが現われて参りました。所が、先月に入ると、毎夜のように薬師堂で狂気のような勤行《ごんぎょう》をするようになったのです。ですから、自然私から遠退いて行くのも無理では御座いませんわ」
「成程……。所で、今度は頗る奇妙な質問ですが、長押にある押絵の左眼は、あれは、とうからないのですか?」
「いいえ」柳江は無雑作に答えた。「一昨日の朝は、確かにあったようでしたけども……。それに、昨日あの室には、誰一人入った者が御座いませんでした」
「有難う、よく判りました。所で」と法水は始めて鋭い訊き方をした。「昨晩十時頃に散歩に出たと云うお話でしたが、昨夜はその頃から曇って、非常に気温が低かったのですよ。確かそれは、散歩だけでなかったのでしょうね」
その瞬間血の気がサッと引いて、柳江は衝動を耐えているような苦し気な表情をした。所が、法水はどうした訳か、その様子を一瞥しただけで、彼もまた深い吐息をつき、柳江に対する訊問を打ち切ってしまったのであ
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