更紗《さらさ》や麻布の日覆いでしたの土が見えない。しかし、夜は美しい。更紗を洩れる灯、昼間は気付かなかった露台の影絵《シルエット》、パタンやブルマンの|喧囂たる取引《エロクエント・コムマース》は、さながら、往時バグダッドの繁栄そのものである。
 平太鼓《タム・タム》が聴える……。それを子守唄に、寝ればまた「一千一夜物語《アラビアン・ナイト》」を夢みる。バクストの装置《デザイン》、カルサヴィナが踊るシェヘラザーデの陽炎《かげろう》。まるでそれは、僕が Haroun《ハルーン》 al《アル》 Raschid《ラシッド》 で、ここへ彷徨《さまよ》い着いたようであった。
 ところが、そうして滞在三日目の夕のことである。
 窓からみると、砂堤の蔭に首絞め台のようなものが見える。それが、最初の日から気になっていたので、ジェソップ氏を誘い散歩がてら出かけていった。が、側へゆくと、それは Masula《マスラ》 という名の、車井戸だったのだ(この Masula《マスラ》 というのは、あるいはこの地方の小舟の名であったかもしれぬ。いずれにせよ、いまは時経て記憶に定かでなし)。
 水牛が、釣瓶縄《つるべなわ》を引くと、絞め殺されるような音を立てる。陽は落ちんとして、マハナディ三角洲《デルタ》はくらい靄《もや》のしたにあった。
 するとそれから、騾《ら》をつないであるアカシヤのしたまで来ると、とたんに、そばの草叢《くさむら》がガサガサっと動いた。
(眼鏡蛇《コブラ》かな?)
 それは、慄《ぞ》っとするのと飛び退くのと、同時だった。しかしジェソップ氏は、からだをかがめ顔を地にすれすれにして、とおく残光が、黄麻畑の果にただようあたりに透《すか》した。
 間もなく彼は、手の泥を払いながら顫《ふる》える私をながめ、
「ありゃ、君、人間の手だよ」
と、嗤《わら》うのだった。
 そこで、|Mr. O'Grie《ミスター・オーグリー》 が安堵したことは云うまでもない。
 しかしジェソップ氏は、顎を撫でながらじっと考え込んでいる。僕は、その腹芸を怪訝《けげん》に思い、とにかく、騾を引いてきてお乗んなさいとばかりにすると、
「君、ちょっとあの男を呼んで来てくれんかね」
 と云うのだ。
「でも……何でです?」
 私は、なにがなんでも得体が分らないので、躊躇するとジェソップ氏は手をあげ、
「いや君は分らんだろ
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