kじゃない。常套《じょうとう》を嫌う君の趣味は、いつもながらの事だが、然し、隠伏奏楽所《ヒッヅン・オーケストラ》の入口と云えば、下手の遙か外れじゃないか。そして、そこと奈落の壁には、ほんの腿が入る位の丸窓が二つ三つ明いているに過ぎないのだ。だから、道具方が開閉器《スイッチ》室に入るのを、見定めてからだと、彼処《あすこ》へ行くまでに、時間の裕《ゆと》りがない。第一君は、刺されたのが奈落の中央だと云う事を、忘れているらしいね」
「そうなるかねえ」
法水は、嘲《せせ》ら笑うような響きを罩めて云った。
「知っての通り、屍体の顔は至極平静な表情をしている。所が、奇妙な事には、眼球が非道く突き出ているんだ。そこに、あの奏楽所からでないと行えない、一つの徴候が含まれているんだよ。ねえ熊城君、幡江が一気に咽喉をかき切られた場所と云うのは、実を云うと、奈落の中央ではないのだ――その端にあったのだよ。つまり、舞台から奈落に落ち込んで行く間は、身体がくの字なりになり、胸が圧されて、非道く窮屈な姿勢だったに相違ない。所が、漸《ようや》く半身が奈落に入ると、胸が寛《ゆる》やかになって、一時に溜り切った息を吐き
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