ノ於いて」に傍点]、その微妙な法則が如何なる毒と化したかも判らない[#「その微妙な法則が如何なる毒と化したかも判らない」に傍点]。つまり[#「つまり」に傍点]、自分の意志に反して口に出たと信じた言葉のために[#「自分の意志に反して口に出たと信じた言葉のために」に傍点]、九十郎は死地に誘われたに相違ないのだよ[#「九十郎は死地に誘われたに相違ないのだよ」に傍点]。それで熊城君、九十郎が半聾である事を僕が知り得たのは、孔雀が云った、――喰物を口にする時は四辺《あたり》を見廻すと云う一事からなんだ。それが、半聾者にとると、最《もっと》も不安な時で、つまり、欧氏管から入る外部の音響が、唇で遮断されてしまうからなんだよ」
 そこで、法水が一息入れると、聴き手は漸く吾に返えり、惑乱気味に嘆息するのだった。
 人間を弾奏する――孔雀が最後の別れの際に、九十郎を抱擁したのは、その目的がまさにそうではないか。さながら、風琴《オルガン》のカップラーを引き出して音色を変えるように、彼女は相手の胸腔を引きしめ、弛ませつつ、音符を変化させた。そして、九十郎の耳底に思わぬ響きを送って、彼に錯想を起させたのである。
 続いて法水は、音響病理学者のグツマンで、ダーウィンの友人ドンダース教授の実験などを例に引いたが、それは悉《ことごと》く、彼の仮説を裏書するものに外ならなかった。たしか、その微妙な秘密の中には、九十郎を再び劇場へ誘ったものがあったに相違ない。そしてその際に孔雀は、恐らく最初の犯行を行ったのであろう。
 熊城は、妖《あや》しい霧の渦に巻かれているような思いがしたが、なお二つ三つ、残っている疑義を取り纏めねばならなかった。
「それでは、舞台の上にいた孔雀が、どうして奈落の幡江を殺す事が出来たのだね」
「それがこの事件の|才智の魔術《ウィッチクラフト・オブ・ウィズダム》さ。詳しく云うと、オフェリヤの裳裾と繰り出しの調帯《ベルト》に孔雀が驚くべき技巧を施したからなんだ。君も知っての通り、オフェリヤが小川に落ちたと見せて、幡江が函の中に入ると、下からの風で、裳裾がパッと拡がるじゃないか。そして、その拡がった裳裾を、傘のように凋《すぼ》めながら、如何にもはまり込んで行くかの体で、腰を落して行ったのだ。だが、そうすると熊城君、風が裳裾の周りを激しく吹き上げるので、当然オフェリヤの頭上には、その輪廓なりに、気洞の円柱が出来てしまう。すると、それには対流の関係で、下行する気流が起る道理だから、当然頭上の金雀枝《えにしだ》の花弁はあたりに散らばらず、その気流なりに、裳裾の中へ落ちて行くだろう。然しその花弁には、多分クラーレあたりの、皮膚を痳痺させる毒物が塗られていたに違いない。それが、幡江の鼻から吸収されるので、次第に全身が気懶るくなって行く。わけても、頭から上に触覚が鈍くなって、漸く横にはなったものの、それからは夢心地で奈落へ運ばれて行った事だろう。すると、恰度その折、観客は揺ぐような錯覚を感じて、総立ちになったのだ。然し、孔雀だけは自若としていて、最後の止めを幡江に加えたのだよ。と云うのは、予《あらかじ》め二|条《すじ》の調帯《ベルト》のうちどれかの一本に、孔雀は鋭利な薄刃を挾んで置いた。そして、折からの騒ぎにまぎれて、その調帯の上を絶えず踏み付けたのだ。すると、緩く張った調帯が当然引き緊まって、廻転が早められる道理だから、アッと云う間もなく、その刃物は恐しい速力で幡江に追い付いた。そして、グタリと垂れた頸を、横様に掻き切ってしまったばかりじゃない、その瞬後には、再び孔雀の眼前に戻っていた理由だよ」
 そうして余す所なく、犯行の説明を終えると、法水は衣袋《ポケット》から、一葉の紙片を取り出した。その刹那、彼の眼には、何かしら熱っぽい輝きが加わって、その紙片ごと、指先がわなわなと顫えた。
 然し、その一片には、故国の空に憧がれる、孔雀の不思議な心理が語られてあった。

 ――もう幕にも間がないままに、鉛筆で走り書きに記す事に致します。貴方はいま、次の幕には必ず風間を指摘すると仰言いましたわね。それで、何もかも終ってしまったのに気が付いたのでした。何故かと申せば、次の幕に現われるものと云えば、風間を入れたオフェリヤの棺以外に何がありましょう。私はもう、最後の覚悟をかためねばならなくなりました。ですけど、私は何故風間を殺し、幡江にも手を加えねばならなかったのでしょうか。
 と申しますのは、外でも御座いませんが、あの風間と云う男は、まこと真実の父ではないので御座います。当時私の母は、父に先立たれて、私を胎内に抱えたまま、路傍を彷徨《さまよ》って居りました。そこを、風間に救われたのですが、多分そうした、風間の強い印象が、胎内の私に影響したからでしょう。私の髪や皮膚の色に
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