ィアスやレイアティズとも関係するばかりでなく、末には諾威《ノルウェー》の王子フォーティンプラスとも通謀して、ハムレット亡き後の丁抹《デンマーク》を、彼の手中に与えてしまうのである。
その女ホレイショの媚体は、孔雀の個性そのものであるせいか、曽ての寵妃中の寵妃――エーネ・ソレルの妖|※[#「さんずい+失」、第3水準1−86−59]《しつ》振りを凌ぐものと云われた。
従ってこの淫蕩極まりない私通史には、是非の論が喧囂《けんごう》と湧き起らずにはいなかった。第一、女ホレイショの模本があれこれと詮索されて、或は妖婦イムペリアだとか、クララ・デッティンだとか云われ、またグラマチクスの「丁抹史《ヒストリア・ダニカ》」や、モルの「|文学及び芸術に於ける色情生活《ディ・エロティクス・イン・リテラツル・ウント・クンスト》[#ルビの「ディ・エロティクス・イン・リテラツル・ウント・クンスト」は底本では「ディ・エロティクス・イン・リテラツル ウ・ト・クンスト」]なども持ち出されて、些細な考証の、末々までも論議されるのだった。
然し、劇壇方面には、意外にも非難の声が多く、結局、華麗は悲劇を殺す――と罵られた。勿論その声は、風間九十郎に対する隠然たる同情の高まりなのであった。
風間九十郎は、日本の沙翁劇俳優として、恐らく古今無双であろう。のみならず、白鳥《スワン》座の騎士――と云われたほどに、往古のエリザベス朝舞台には、強い憧れを抱いていた。
(前《ボーダー》、奥《ハインダー》、高《アッパー》)と、三部に分れる初期の沙翁舞台――。その様式を復興しようとして、彼は二十年前の大正初年に日本を出発した。それから地球を経めぐり、スタニスラウスキーの研究所を手始めにして、凡ゆる劇団を行脚《あんぎゃ》したのだった。
けれども彼の、俳優としての才能はともかくとして、その持論である演出の形式には、誰しも狂人として耳をかそうとはしなかった。そして、疲れ切った身に孔雀を伴い、敗残の姿を故国に現わしたのが、つい三年前の昭和×年――。
そう云えば、滞外中九十郎が、第二の妻を持ち、その婦人とは、ラヴェンナで死別したと云う噂はあったけれども、その浮説が遂に、混血児の孔雀に依り裏書された訳である。
然し、日本に戻ってからの九十郎には、言葉に不馴れのせいもあって、それは非道い、厭人癖が現われていた。のみならず、
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