場の中には、もう一つ――ねえロンネ君、もう一つ屍体がある筈ですがね」
 その瞬間、ロンネの長身が竦んだように戦いて、殆んど衝動的らしい、苦悩の色が浮かび上った。そして、ゴクゴク咽喉を鳴らして、唾を嚥《の》み込もうとしているのを、法水は透かさず追求した。
「僕は、不図した機会から、誰一人知らない――君と幡江との関係を知る事が出来たのです。然し、幡江は狂乱の場で、自分のために紅水仙をとったのですが、それを花言葉で解釈すると、心の秘密と云う事になるのです。だが、まあそれはそれとして、それから何故、台詞を台本通りに云わなかったのでしょうか。迷迭香《ローズ・メリー》でも――と云って、その次に、それでも|百合の花《フルール・ド・ルス》でもどっちでもいいのだけれど、きっと凋んで[#「凋んで」は底本では「凅んで」]しまうだろう――と云った。しかも、その百合の花を、フルール・ド・リシイと発音しているのですが、そうなると僕は、是が非にもフロイトぐらい、担ぎ出さなくてはなりますまい。何故なら、人間の心理的機構と云うものは、至って奇妙なもので、類似した二つの言葉があると、一方の何処かに、その強い方のものが影響してしまうのです。つまりフルール・ド・リシイと語尾を云い違えたのは、迷迭香《ローズ・メリー》と云って、Rose と Mary と二つの言葉を思い浮かべたために、それが聯想的に引き出したものがあったからです。ねえロンネ君、フルール・ド・リシイにフリードリッヒ――。この二つの音が非常によく似ているために、ルスをリシイと発音してしまったのですよ。つまり迷迭香《ローズ・メリー》でも|百合の花《フルール・ド・ルス》でも――と云った台詞の意味は、もし女の子が生まれたらローザかマリア、男の子だったらフリードリッヒと附けよう――。そう生まれる子の名定めを、幡江がいじらしくも、思い続けていたからなんです。ねえロンネ君、幡江は君の種を宿していたのだ。そして、今夜を限り、君が堕胎させようとしたその子は、闇から闇に葬られてしまったのだよ」
 法水の意表に絶した透視のために、勝敗がこの一挙に決定してしまった。
 ロンネの蒼ざめた影のような身体が、扉から蹌踉《よろめ》き出たのはそれから間もなくの事で、法水は何んと考えたか、それなり追求を止めて去らしめてしまった。然し、その一事は、事件の表裏二様に咲いた、二つの花
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