でしたと思われたのです。と云って、その前後には、何も床板を蹈むような音はしなかったのですから、私は不審に思い行ってみました。すると、そこにあるのは、脱ぎ捨てられた、亡霊の衣裳では御座いませんか。そして、簀子の上の方で、チラチラ動いている影が、眼に映りました。けれども、私はもうその上追う事が出来なくなりました。と云うのは側の時計を見ますと、それが恰度九時になっていたからです。いいえ法水さん、たしかに父は[#「たしかに父は」に傍点]、いまこの劇場の[#「いまこの劇場の」に傍点]、何処かにいるに違い御座いませんわ[#「何処かにいるに違い御座いませんわ」に傍点]。ところ[#「ところ」に傍点]が[#「ところ[#「ところ」に傍点]が」はママ]私達は、どれもこれも卑怯者ばかりなんですの。父の一生を台なしにして、あの無残な破滅に突き落してしまった……」
幡江は膝頭をわなわなと顫わせ、辛ろうじて立っているように思われた。
所で、彼女がいま、九時と云う時刻を口にしたのだったが、その理由を云うと、道具建ての関係で時間が遅れた場合には、続く二場を飛び越えて、次を、オフェリヤ狂乱の場とする定めになっていたからである。
しかし、不思議な事には、検事の時計も、熊城のも、指針がまだ九時には達していなかった。そして、今がかっきり八時五十分だとすると、その時計が九時を指している頃は、ほぼ八時三十分頃ではなかっただろうか。更に、その時計を進ませたと云うのには、何か幡江の追及を阻《こば》む意外[#「意外」はママ]にも、意味があるのではないだろうか――などと考えて来ると、法水の頭の中が急にモヤモヤとして来た。
が、思い付いたように、化粧鏡の抽斗《ひきだし》から何やら取り出して、その品を卓上に載せた。けれども、その口からは、意外な言葉が吐かれて往ったのである。
「幡江さん、僕はこの品一つで、一人の男の心動を聴き、呼吸の香りを嗅ぐ事が出来ました。とうにこの通り、貴女のお父さんから、消息を貰っているのですよ」
そう云って、突き出したのは、洒落れた婦人用の角封だった。が、内容を読み終ると、同時に三人は、呆気にとられた眼で法水を見上げた。
それは、韻律を無視した英詩で記されたところの、次のファン・レターに過ぎなかったのである。
In his costumes he recites
The
前へ
次へ
全33ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小栗 虫太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング