あろうがいま、「太平洋漏水孔《ダブックウ》」のこの島のなかには歴然とそれがいるのだ。そいつは、ガラバゴス島の大亀ほどの巨きさで、四、五百ポンドの巨体をゆすりながら愛らしい声で鳴く。私は、肉も食ったが、ひじょうな美味だ。
 ほかには紅蝙蝠《レジウルス・ボレアリス》のひじょうに巨きなのがいるだけで、生物は、ただその蝙蝠と亀だけに過ぎない。そして、島の中央は礁湖になっている。
 だが礁湖《ラグーン》には、普通外海との聯絡孔が水面下にあるのが通例だが、ここでは、それが最近塞がってしまったらしい。そのため、澱んだ水が高温のため腐り、どろどろの海草や腔腸動物の屍体が、なんとも云えぬ色で一面に覆うているのだ。
 まさに、これこそ死の海の景である。そこへ、赤子の手のような前世界の羊歯や、まるでサボテンみたいに見える蘇鉄の類が群生し、そのあいだを、血のような蝙蝠が飛び、鳴き亀が這うといったら、まず地球前史の風物というよりも化物の世界だろう。
 こうして、地上に数百万年もとり残された島のなかへ、私たちはポツリと置かれたのだ。今では、ここを出たいとか人里が恋しいとか、そんな事はなにも思わなくなっている。
 温度は、ここでもやはり高い。外辺のいわゆる湿熱環ほどではないが、多分摂氏四十度ぐらいはあろう。そのため、私たちはだんだん痴愚《ばか》になってゆくようだ。
 実際、今のところは死なないと云うだけだ。脳力、が暑さのため減退してゆくと云うことは、なにより、お利口さんのハチロウをみれば分る。今では、日本のことも何もいわなくなったし、第一、こう云っている私がそうではないか。あれほど、自己批判の眼をむけて触れようともしなかったナエーアと、いまは動物の雌雄のようになっている。
 一切が、もう忘却の彼方にあるのだ。
 ところで、此処へ来て私は不思議な人間になった。おそらく私は、この地上における新生物かもしれない。というのは、いつも身体を倒して斜めに歩いているからだ。ちょうど、水平とは四十五度の角度で、私は斜めにかたむきながら歩いている。またそれが、この「太平洋漏水孔」の島での普通の歩きかたなのだ。では、一体なぜだろうか。
 それは、この「太平洋漏水孔」では水平というものが、大漏斗の斜面しかないからだ。それに、いつもおなじ方向からひじょうな強風が吹いている。そのため、全島の樹木がなかば傾いて……その薙がれた角度が大漏斗の斜面と、ちょうど直角をなしているのだ。だから、そのあいだへ直立している私は、てっきり、なかば傾きながら歩いているとしか思えない。まったく、錯覚とはいえ自然天地の法則が、ここではものの見事に覆えされている。
 これも、私がまったく痴愚《ばか》になったためか、いや、決してそうではないだろう。
 海面は、黒くたかく頭上にそびえ、風と飛沫と囂音で一分の休息もない。そのなかで、私たちはだんだんに退化して、いまに鳴き亀とおなじようになるだろう。
 ところが、きょう夜にかけて大颶風がやってきた。そのあと、朦気が吹き払われ清涼の気をおぼえると、今まで忘れていたこと、感じなかったこと、また、私が是非しなければならぬことが、まるで堰切った激流のように迸しってくる。私は寸時でも、脳力を恢復したことを悦ばねばならない。
 それは、私が痴愚《ばか》になったという第一の証拠だが、ハチロウのことをすっかり忘れていたのだ。私とナエーアが、この水面下の島で朽ちはててしまうのはよし。しかし、ハチロウをここで鳴き亀同様の存在にするということは、まったく何としても忍びないことなのだ。
 私は、今夜ハチロウを外海へ出そうというのだ。それには、渡り鳥である鰹鳥を利用する。さらに“Cohoba《コホバ》”をハチロウにもちいて泥々に酔わせて置く。そして、そのハチロウを入れた籠を鰹鳥にひかせる。おそらく、五羽の鰹鳥はその籠をひいて、底をかすかに水面に触れながら、まっしぐらに突っ切るだろう。
 愛は、ハチロウをきっと守るにちがいない。そして神も、私の天使ハチロウに倖いするだろう。
[#地から4字上げ]水面下の島にて
[#地から1字上げ]キューネ

         *

 私は、読みおわってからも亢奮がさめず、なんだか此処も、斜めに倒れながら歩いている感じがするという、「太平洋漏水孔《ダブックウ》」のその島のような気がした。折竹は、にたにた笑いながら私のからだを支え、
「オイ、しっかりしろ」
 と怒鳴った。私は、頭の靄がようやく霽れたように、
「そのハチロウという子は助かったわけだね。で、今は?」
「あいつかね。あいつは、時々いま重慶へ飛んでゆくよ。そして、爆薬のはいったおそろしいウンコを置いてゆく。まったく、ニューギニアといい『太平洋漏水孔《ダブックウ》』といい、よく方々へウンコを置いてゆく奴さ」
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