父母の懐ろから拉しこられたにも拘わらず、ベレスフォードの子はかるい寝息をたてている。この、無心神のような子になんの罪がある※[#感嘆符疑問符、1−8−78] いかに、復讐とはいえどうして殺せようと、一度理性がもどれば飛んだことをしたと急にキューネはその子が不憫になってきた。
 どれどれ、すぐ坊やのお家に帰してやるよ――と、もともとキューネは子供好きだけに、毛布をあげてそっと顔を見ようとした。
 夜が明けかかり、星影がしだいに消えてゆく。当て途なく流れてゆくこの独木舟《プラウー》のうえにも、ほの白い曙のひかりが漂ってきた。すると、いきなりキューネがハッと身を退くような表情になり、
「ちがう、こりゃ、ベレスフォードの子じゃない」
 とさけんだ。
 白人ではない。五歳ばかりの、黒い髪に琥珀色の肌。くりくり肥った愛らしい二重※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]。この、意外な東洋人の子におどろいたキューネは、がたがた独木舟《プラウー》をゆすってその子を起してしまった。
「オヤッ」
 というようなまん丸い眼をして、しばらくちがった周囲に呆気にとられていたその子は、やがて、しくっしくっと泣きじゃくりを始め、
「オジチャン、ここ、ジャッキーちゃんのお家じゃないんだね」
「そうだよ。だが、もうじきに帰してやるからね。ときに、坊やはどこの子だね」
「お父ちゃんは、日本人でジョリジョリ屋だい」
「ジョリジョリ※[#感嘆符疑問符、1−8−78] ああ理髪屋《とこや》さんだね。で、坊やはどこで生れたんだ」
「シドニーだよ。お母ちゃんは、去年そこで死んじまったんだ。お父ちゃんは、それから兵隊附きのジョリジョリ屋になって、今度も、隊と一緒にここへ来たんだがね。それも、先週の土曜にマラリアで死んじまったよ。ボクは、宇佐美ハチロウっていうんだよ」
 五歳で、この蛮地へきて孤独の身となるだけに、なかなか、ませてもいるし利発でもある。それから聴くと、父の死後はベレスフォードの家へきて、そこの、ジャッキーちゃんの遊び相手になっているというのだ。してみると、ゆうべジャッキーが壁際に寝ていたのを、キューネが見損なったわけなのである。しかし、ともかくこの子は帰さなければならない。
「オジチャン、オチッコが出たいよ」
 きゅうに、ハチロウが尻をもじもじしはじめた。
「だけど、ジャッキーちゃんは海へオシッコすると、オチンチンを撞木鮫にとられるというよ」
 と、その時どうしたことか、ハチロウの腰をおさえてオシッコをさせている、キューネの手がいきなり震えはじめてきた。遠空に、色付きはじめた中央山脈を縫いながら、するするのぼってゆく英国旗《ユニオン・ジャック》。しまった、もうこの子を帰そうにも帰せなくなったと――起床ラッパの音を夢のように聴きながら、かれはまったく途方に暮れてしまったのである。
 天地間、いま一人のこの身の置きどころもなくなった彼は、ハチロウの処置という重荷が加わったのだ。多分、明ければハチロウの失踪に気がつくだろう。そして、この島の内外がきびしく調べられるだろう。所詮自分は、ハチロウを帰そうとしてこの辺に迂路ついてはいられない。では、これからどこへ行こうか。
 周囲はことごとく英仏領諸島。蘭領も米領も、所詮ドイツ人にとっては安全の地ではない。いまこの地上に一寸の土地もなくなった。キューネはただ悶えるのみであった。そこへ、突然ハチロウがこんなことを云いだしたのだ。
「オジチャンの、このお舟はどこへゆくんだね。坊やのお国の、日本へゆくの?」
「行ってもいいよ」
 と、彼は眼先がきゅうに開けたような気がし、
「だけど、坊やはジャッキーちゃんのお家へゆくんじゃないのかね」
「うん、だけどね。ジャッキーちゃんはとっても威張るんだもの。あたいを、いつも慾ばりの悪殿様にして、ジャッキーちゃんの海賊が退治にくるんだもの。だけど、あたいのお国の日本なら虐められないだろうね」
 こんな、頑是ない子が郷愁をおぼえる哀れさ。それは、やはりキューネも同じことである。オジチャンも、どれほどドイツへ帰りたいか知れないよと、口には云わないがいきなりハチロウを抱きしめ頬ずりをしながら滂沱と涙をながした。
「ゆこう坊や。坊やのお国の日本へゆこうよ」
 そうして二人は、安住の地へと漂泊をはじめたのであったが……それには、まず行きようもないと云う秘境が必要だ。ところが、独領ニューギニアの最北端に、“Nord−Malekula《ノルド・マレクラ》”という、荒れさびた岬がある。そこには、岩礁乱立で近附く舟もなく、陸からの道には“Niningo《ニニンゴオ》”の大湿地があり、じつに山中に棲む矮小黒人種《ネグリトー》さえ行ったことがないと云う。かれは、まず皇后《カイゼリン》オウガスタ川を遡っていった。
 
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