なければならぬ新遭難船の人たち。絶望、発狂、餓死、忍びよる壊血病。むくんだ腐屍の眼球をつつく、海鳥の叫声。じつに、凄惨といおうか生地獄といおうか、聴くだに慄っとするような死の海の光景も、いまは藻海《サルガッソウ・シー》のとおい過去のことになっている。
では、海に魔境は絶対ないと云えるのか※[#感嘆符疑問符、1−8−78] そういうと、折竹は呆れたような顔をして、
「オイオイ、俺だからいいようなもんの、他人には云うなよ。今どき、藻海《サルガッソウ・シー》なんて古物をもち出すと、君の、魔境小説作家たる資格を疑うものがでてくるからね。だが、じっさい海には魔境といえるものが、少ない。彼処に一つ、此処に一つと……マアそれでも、三つくらいあるだろう」
全然ないと思われた海洋中の魔境が、折竹の話によれば三つほどあるという。ゆけぬ魔海――それはいったい何処のことだろう。また、陸の未踏地のごとく全然人をうけつけぬ、その海の魔境たる理由? しかも、それがわが大領海「太平洋」中にあるという、折竹の言葉には一驚を喫しないわけには往かない。
「それが、東経百六十度南緯二度半、ビスマルク諸島の東端から千キロ足らず。わが委任統治領のグリニッチ島からは、東南へ八百キロくらいのところだ。つまり、わが南洋諸島であるミクロネシアと、以前は食人種の島だったメラネシア諸島のあいだだ。そこに、世界にもう其処だけだという、海の絶対不侵域がある」
「ほう、まだ|未踏の海《マーレ・インコグニタ》なんてこの世にあるのかね。で、名は?」
「それが島々でちがうんで色々あるんだがね。ここでは、いちばんよく穿っているニューギニア土人の呼びかたを使う。|〔Dabukku_〕《ダブックウ》――。つまり『海の水の漏れる穴』という意味だ」
土人の言葉には、ひじょうに幼稚な表現だが奇想天外なものがある。この“|〔Dabukku_〕《ダブックウ》”などもその一つ。直経百海里にもわたるこの大渦流水域を称して、「海の水の漏れる穴」とはよくぞ呼んだりだ。
そこは、赤道無風帯のなかでいちばん湿熱がひどいという、いわゆる「|熱霧の環《レジョン・オブ・クラウド・リング》」のなかにある。そしてその渦は、外辺は緩く、中心にゆくほど早く、規模でも、「メールストレームの渦」の百倍くらいはあろう。ましてこれは、鳴門やメールストレームのような小渦の集団
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