を知っているのだ。どんな魚類でも方向転換するとき、いかに急いだからといったとて、一度前方へ半円を描かないと、後方へ頚《くび》を向ける動作はやれないのである。
ところが、この鰡君はそんな手数をかけない。物に驚いて、逸走の動作に移るとき、からだをそのまま、トンボ返りというのか、角兵衛の翻筋斗《もんどり》というのか、情勢に支配されないでうしろへくるりとまわり、勢い込めて逃げるからだ。
この魚と同じに、トンボ返りのやれる奴は、九州有明湾に棲んでいるムツゴロウという沙魚《はぜ》の一種だけであると、私の友達が話したが、果たしてどんなものだろう。
湾内へ泳ぎ込んだ鰡群を首尾《しゅび》よく漁《と》ると、漁師はそのうちから、腹に卵を抱えているものだけを選びだして、沼津へ送るのである。沼津には、技術秀逸なからすみ製造工場がある。そこで、卵を立派なからすみに仕上げて、これを長崎へ移出するのだそうだ。
長崎ではそれに長崎産の商標を貼って、全国へ売りだすのであるという。ちょうどこれは桐生や足利産の丸帯やお召を、一度京都へ運んで行って、これを西陣織として商標を貼るのと同じであろう。
近年、九州五島あたりは、鰡の通過が少なくなったために、こんな手段をやるらしいのだが、沼津製のからすみが、そんなに上等であるならば、沼津産は沼津産として売りだしたらば、よろしいではないか。
それは、ともかくとして伊豆半島からさらに西へ行った鰡群は、どこを目ざすのか。それが分からない。石廊岬の突端で、姿を没した鰡群は駿河湾の真ん中へ出てしまうのか、それとも伊豆七島の方の太平洋へ旅するのか、仲木や松崎の方へは姿を見せないという。
なんとなく、からすみで一杯やりたくなった。
底本:「垢石釣り随筆」つり人ノベルズ、つり人社
1992(平成4)年9月10日第1刷発行
底本の親本:「釣随筆」市民文庫、河出書房
1951(昭和26)年8月発行
初出:「釣趣戯書」三省堂
1942(昭和17)年発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2007年7月2日作成
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