け合ったから、分福茶釜と名づけたという。
そこで道具屋連中は、興業が終わると顔を揃えて分福茶釜を携えて茂林寺へ行き、今回の次第とお礼を述べて、末永く茶釜の加護を正通和尚に頼んだのである。これがいま尚、茂林寺に伝わっているそうだ。
六
赤城山麓の、厩橋城も狸の巣であった。厩橋というのは、前橋の旧名である。
厩橋城は、慶長六年酒井重忠が、武州川越から転封された後、忠世、忠行、忠清、忠挙、忠相、親愛、親本の六世をへて、忠恭に至るまで百五十年間の居城であったが、そのいく度かの、利根川の洪水のために、西方の城壘が崩壊を重ねたのであった。
元来、厩橋城は酒井家が移ってから、利根の激流に悩まされたわけではない。天正十年織田信長の重臣瀧川一益が居城した頃から、毎年出水期になると、利根の流れのために城が盛んに崩されたらしい。
現在、利根川は前橋市の西側を流れているけれど、今から百年ばかり前までは、前橋と赤城山麓との間の一本、前橋の西側群馬郡との間を流れる一本、都合二本に分かれて流れていたのである。それが、五、六月頃から十月頃までの出水期には、激流が荒れ狂って、田地田畑からお城まで洗い去
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