いる。
いずれも、怪しきことに思っていると、一人の武士が城の隅の叢《くさむら》のなかで異様なものを発見した。それは一疋の大狸、しかも冑を着て倒れているのである。手も足も、頭も傷ついて息絶え絶えのありさまだ。
武士がその傍らへ走り寄ると、狸は苦しげな声で自分は年古くこの城のなかに棲んでいる。恰《あたか》も、城の将兵から飼われているのも同じようであった。ところが、昨夜の戦いで城方が甚だまずい。この分では、落城に及ぶかも知れぬと知ったとき、傍観するのに忍びなかった。そこで、多数の将兵に化けて出で、力の限り闘って、このように深い手傷を負ったけれど、北条武田方を敗走せしめたのは本望であった。これで、多年の御恩返しもでき、無事に極楽へ行けましょう。こう、苦しいなかから物語り終わると、息を引き取ったという。
八
これは、それから二十二、三年過ぎてからの話である。
上杉が退いたあとの厩橋城を支配したのが、瀧川一益であった。一益は、天正十年北条氏政のために敗られて、西の国へ走ったのである。そのあとは山上美濃守、織田彦四郎、松田兵部大夫などが引き続き北条の城代として厩橋にいた。
秀吉が二十五万の将兵を率いて小田原の北条を攻めたのは、天正十八年である。そのとき、これに呼応して北陸の上杉景勝、前田利家が相携えて大兵を進め、信州から碓氷《うすい》峠を越えて上州へ攻め入った。まず松井田の城を攻め、城主大道寺政繁は坂本にこれを防いだけれど、衆寡敵わず敗走、ついにその先導となって上杉前田勢に加わったのである。それより進んで大軍は厩橋、沼田、松山、箕輪、河越の諸城を次々に陥《おとしい》れ、最後に鉢形城を囲んだのである。
上杉と前田が、厩橋城を攻めたのは天正十八年の猛春四月である。朧夜に、寄せ手は忽ち厩橋城の城壁に迫り、鬨の声をあげて城門を突破しようとする危急の場合、予想もしなかった新手の大軍が、城内から石垣の上へ現われた。そしてこの数千の大軍は、寄せ手を目がけて大小の石塊を無数に投げつけて、雨か霰のようである。さしもの寄せ手も、この不意の乱撃に堪らず、たじろいて度を失い、勢いを崩して退いたのである。
すると、今まで雲霞の如く城壁にいた大軍は、掻き消すように見えなくなった。そこで、再び寄せ手は引き返した。と、またもや数千の大軍が城壁に現われて、石塊を飛ばす。寄せ手は今回も退却する
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