へ行き帰りに、一杯十銭の文字を何度怨めしく眺めたことであろう。私は、懐ろにある二円あまりの金をしっかり握って往来に立ち、頭がふらふらとしたのである。
 ――幾月振りだ、一、二杯は天の神さまも許してくれるだろう――
 思いきって、泡盛屋の腰高障子をあけた。三杯ばかり、立てつづけに呷《あお》った。酒精の熱気が五臓六脇へ泌みわたる。咽が快く鳴って、食道を烈液が流れさる爽美の感は、これをなにに譬《たと》えよう。いままでの苦しみも悩みも、貧の脅迫感もこの小さな洋盃二、三杯で、跡形もなく拭い去られた。
 ――白雲飛び去り、青山ありだ――
 ああ、甘露かんろ。だが、もう一杯ぐらいは二円あまりの金に対して大した影響はないであろう。それから、がんもどきのおでんを一皿食べたところで、これも大なる負担ではあるまい。もう一杯、もう一杯。
 ぶるぶると、寒さに眼がさめてあたりを顧みると、私は家へ帰る途中の田圃の麦の畦の間に寝ていたのである。早暁である。東の空に、淡紅の雲が棚引いている。
 ――しまった――
 しかし、もう遅い。
 蟇口のなかの金は、悉く呑み尽くしてあった。昨日の朝、家を出るときに米櫃が空であるの
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