鱒の卵
佐藤垢石
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)山女魚《やまめ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一粒|乃至《ないし》二粒
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)掘り[#「掘り」に傍点]
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秋がくると、山女魚《やまめ》は鱒《ます》の卵を争って食うのである。わが故郷、奥利根川へ注ぐ渓流には落ち葉を浮かせて流れる浅瀬に、鱒の産卵場を見ることができるのだ。これを、鱒が掘り[#「掘り」に傍点]についたという。
日本鱒というのか、天然鱒というのか、海から川へ遡ってくる鱒は、アメリカから移り殖えた虹鱒《にじます》とか川鱒《かわます》とか、北海道から内地へ移して人工で繁殖した鱒に比べると、比較にならないほど、姿も大きく味も上等である。奥利根川へは、大正十五年の春まで、下総《しもうさ》国の銚子河口の海から遡ってきた。
大正十五年春に、上越線岩本駅地先へ関東水力電気の堰堤ができあがると、もうそれからは全く日本鱒の姿が、岩本から上流へは姿を現わさぬことになった。これも私ら釣り人にはさびしい想い出である。
海の鱒は、寒流に乗って北洋から回遊してきた。そして、太平洋側では北海道の諸川、陸中の閉伊川、北上川。陸中の阿武隈川。磐城《いわき》の夏井川や鮫川。常陸国《ひたちのくに》の久慈川に、那珂川などへ、早春の三月中旬頃、すでに河口めがけて遡《さかのぼ》ってくるのである。利根川も、同じことであった。
だが、利根川は太平洋では、天然鱒の遡り込む西のはずれの川である。つまり、最後の川である。それは、寒流が銚子地先で遠く太平洋の沖合はるかに流れだしてしまい、房総半島方面には冷たい潮が赴かぬため、温かい潮を好まぬ鱒はそれを避けて沖合に泳いでいくからである。
従って、昔から房総半島から西で、太平洋へ注ぐ川では、鱒の姿を見ないのだ。
こんな歴史のある利根川へ、いまは天然鱒の姿を見ないのは、なさけないことだ。
話は前に戻って、天然鱒が渓流で産卵をはじめると、その産卵場の下流へ、たくさんの山女魚やはや[#「はや」に傍点]が集まってくる。それは、鱒が産卵するとき、卵がこぼれて流れてくるのを待っているのである。鱒は産卵が終わると、雄は放精しておいて、卵に砂をかけ外敵に荒らされぬように防ぐのであるが、鱒の親が去ると山女魚もはや[#「はや」に傍点]も、その産卵場の砂をはねのけて卵を盗み食うのである。
こんなわけで、秋がきたころ鱒の餌を用いると、山女魚もはや[#「はや」に傍点]も素敵によく釣れた。
私は、水戸に遊び住んでいたころ、漬物屋の店頭に、塩漬けの鱒の卵の入った樽を発見した。つまりイクラである。そのとき、ふと鱒の卵で山女魚とはや[#「はや」に傍点]を釣った故郷の渓流を想いだしたのである。那珂川にいるはや[#「はや」に傍点]も、鱒の卵を知らぬことはあるまいと考えたのである。
試みに、漬物屋のイクラを那珂川へ持っていって、はや釣りをやったところが、盛んに釣れたのである。その後、天然鱒が遡らない東海道地方の渓流へ赴いて、イクラを餌にしたところ、山女魚が素晴らしく釣れた。これは、鱒の卵と、山女魚の卵と同じ質のものであろうからと思う。
山女魚は、自分たち仲間が、産卵をはじめると、やはり鱒が産卵場についた場合と同じように、その卵を盗み食うのである。だから、全国いずれの川へ臨んでもイクラで山女魚が釣れるのに、不思議はないのだ。
イクラを鈎《はり》にさすには、一粒|乃至《ないし》二粒でよろしい。数多くつける必要はないのである。鈎合わせは素早い方がよろしい。
去年、磐城国の鮫川の上流へ注ぐ、一本の渓流へ山女魚釣りに行った。ここは、あまり都会人の注目せぬ場所であったから、行くたびに数多く釣れたのであったが、そのときはいつの間にか荒らされていたと見えて、極めて成績不良であった。そこで、私は試みにこんなことをやってみた。イクラのひと抓《つま》みを、口にふくんでそれを唾液でよくぬらし、それをぱっぱっと渓流の落ち込みへ吐いた。つまり、寄せ餌にするつもりであったのである。
そこで、ゆっくり一服喫ってから、鈎先にイクラを一粒つけて鈎を振り込んだところ、すぐ掛かった。続いて掛かった。同じ落ち込みで十尾近くの大きな山女魚を釣った。たぶん下流からイクラを慕って、この落ち込みへ集まってきたものと見える。それからさらに上流へ上流へと、寄せ餌を撒いていって、思わぬ大漁をしたことがあった。
だが、元来私は寄せ餌までして、魚を釣るのを好まぬのに気がついて、なんとなく面目ないような気持ちを催したのである。
底本:「垢石釣り随筆」つり人ノベルズ、つり人社
1992(平成4)年9月10日第1刷発行
底本の親本:「釣随筆」市民文庫、河出書房
1951(昭和26)年8月発行
初出:「釣趣戯書」三省堂
1942(昭和17)年発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2007年5月1日作成
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