、背の鱗を濃藍色に彩って、脂肪厚く香気漲って、美味の極致を尽くしていたものである。大きさ一尺に達し、魚函のなかを泳ぐ姿が、素晴らしい。
 味の立派な、正しい姿の鮎が棲むというのは、流れが激しい上にそのあたりの岩の質が秀れているからである。日向国の鮎がおいしいのは、その国に古生層が押しひろがっているからである。古生層の岩から滴り落ちる水には、鮎の好む上等の水垢が育つのである。
 わが片品川の上流にも、広くはないが古生層がある。その上は、激端の連続だ、鼻高々と自慢しても、決して恥ずかしからぬ鮎の棲むわけであると思う。
 そんな次第で、数は少なく形も小さいけれど、神流川や鏑川へ遡り込んだ鮎も、甚だ香気が高い。やはり、この二つの川の上流は、秩父古生層に掩われているからだ。
 であるのに、大正十五年以来、利根川の鮎は川田村から上流へは遡らぬようになった。下流の渋川方面には時局のおかげで、いろいろの工場が設立されて毒水を流す。白根山の悪水は年々、濃度が高くなる。
 ああ、利根の鮎はついに、亡びるのであろうか。
 昭和七年であったか八年であったか、白根火山が、大噴火した直後、十二月一日、友人五、六人と共に、草津から雪を踏んで頂上の大きな火口を覗いたことがあった。
 白根山は、噴火と同時に、どんな位の毒を火口から吐きだしたかを調査するのが目的であったが、科学者でない私達に、そんなことがわかろう筈がなかった。しかし案内の話によると渋峠から東南によったところ、ものの貝池の北に寄った方面に積もった火山灰には夥《おびただ》しい毒が含まれているそうだ。
 それが、雪解け頃になると雪代水と共に流れだし、下流の魚類を鏖殺《おうさつ》するという話である。草津温泉の上手から流れだす毒水沢には、硫酸そのものといっていいほどの水が流れていて、それが須川に注ぎ、須川は長野原で、吾妻川に注ぐ。
 さらに、それから二、三里上流の西久保には万座川が、火山の悪水で流れを黄色に染めて吾妻川へ注ぎ込んでいるから、吾妻川は西久保から下流は全く生物の棲めない地獄の川となっている。
 これでは、利根本流の鮎をはじめ、いろいろの魚族も、前橋の養鯉の池も、全く堪ったものでない。
 それほど猛毒の持ち主である吾妻川でも、嬬恋村大前の下手あたりから上流には、日本一の山女魚《やまめ》が棲んでいるのである。青く銀色に冴えた肌、体側に、正しく十三個ならんだ紫ぼかしの小判形の斑点、頭のてっぺんにつけた円《つぶ》らかな眼、なんと山女魚は、華艶の服飾と、疎麗な姿の持ち主であろう。
 利根川にも山女魚は棲んでいる。しかし、利根本流の山女魚は、胴の肉の厚みに乏しい。また脂肪も少ないだけに、どこか風味に物足らぬ。
 ところが、吾妻川の上流である大前、大笹、鹿沢あたりで漁れる山女魚は、頭から尾筒に至るまで、むっちりと肥って、触れれば体温でもありそうだ。舌ざわり細やかな脂肪に富んで、串にさして榾火《ほたび》に当てれば、脂肪が灰に漏れ落ちる。
 これは、吾妻川上流の水質が、山女魚の餌である川虫の生育に適し、これを山女魚がふんだんに食べているからであろう。支流の干俣川、地蔵川、熊川にも、姿の美しい味の立派な山女魚がいる。浅間山麓六里ヶ原を流れる地蔵川へ流れ込む小渓流赤川には、山女魚と亜米利加系の紅鱒との稚魚が棲んでいて、この味は、また別趣だ。
 塩焼きが最もおいしいという評である。だが私は、二、三日焼き枯らして置いて煮びたしに煮あげるのを絶品といいたい。
 蒸し焼きもよい、フライも結構、味噌田楽にも雅味がある。
 関西では、四国の吉野川の山女魚が随一であるという。伊予と土佐の山境に吉野川の源流が潺峡《せんきょう》をなしているが、友人がそこで釣った山女魚の濃淡を味あった。けれどやはり私はわが吾妻川の山女魚の味を凌ぐものではないと思った。
 煮びたしの一片を口に含むと、舌から鼻に通う山女魚特有の濃淡な風趣、これは、いずれの魚肉にも、いずれの獣肉にもたとうべきものがない。
 山女魚の風趣も魔味の一つに数えられると思う。戦局はいよいよ切迫してきた。しかし我々は、あまり神経質となってはいけない。あまりに、焦ってはならぬのだ。
 身近の味覚に心を洗い、生命の最後まで、身神共に大いなる余裕を持っていねばならぬであろう。



底本:「『たぬき汁』以後」つり人ノベルズ、つり人社
   1993(平成5)年8月20日第1刷発行
※<>で示された編集部注は除きました。
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2006年12月2日作成
青空文庫作成ファイル:
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