氷湖の公魚
佐藤垢石

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)数奇者《すきもの》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)水深八十|尋《ひろ》
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 トルコ人ほど水をよく飲む国民はない。水玉を一献舌端に乗せて、ころがすと、その水はどこの井戸、どこの湖水から汲んだものかをいい当てるほど、水に趣味をもっている。
 わが国にも大そう水に趣味をもった人がいた。近江国琵琶湖畔堅田の北村祐庵という医者は、日ごろ茶をたてる時、下僕に命じて湖上から水を汲ませたが、その水の味によって汲み場を指摘したという。文化ごろ煎茶の流行した時代には数奇者《すきもの》が集まって幾つもの椀に煎茶を盛って出し、その水の出所が多摩川か、隅田川か、はた井戸かをいい当てるを誇ったということである。支那にも李徳祐陸羽、蒲元などいう清水飲み分けの名人がいた。
 水の味を飲み分けるのは、余程舌の肥えた人でないとむずかしいが、魚の味ならば誰にも大概は分かる。鯛や鯖の産地。鰻や鯉、鮎などの天然の産か養殖ものか、網でとったものか釣ったのか、などということは少し食味に通じた人ならば舌先で分ける。
 そこで想い出すのは公魚《わかさぎ》である。公魚は氷魚と同じにこれから冬に入って季節となるが、東京市民の口に入るものは、多く土浦の霞ヶ浦産である。白銀色に美しいところはあるけれど、泥臭い上に渋味が強く至味というわけにはいかない。俗にチカキという青森県や北海道方面からの乾公魚は一層渋味が強くて惣菜にもならぬほどである。ただ、形の大きいところが取柄《とりえ》であろう。
 と、いうわけで霞ヶ浦産でも、東京付近の中川、江戸川、荒川などで釣れた公魚を上等の食味を盛っているとは思わなかった。ところが、昨年の初冬から釣れはじめた榛名湖の公魚を食べてみて、なるほど公魚とはおいしい魚であるということが分かったのである。やはり他の魚と同じに、棲む場所によって味に変化が生まれるものと見える。赤城の大沼は水深八十|尋《ひろ》、凄い紺碧を湛えて温度が低過ぎるため、舌触りに荒い感じを持つが、榛名湖は水深十七、八尋で深い方ではなく、明るい淡青色で味がやわらかい。茶を煎じて熟すに適《かな》う。なお底石が細かい火山の噴出物で四時外輪山から湧水を注ぎ込み、餌の藻蝦《もえび》が豊富であるから他の不純物を口にしないので公魚の味が
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