ぼり、陸奥《むつ》の藤原領へ越える峠の一夜、足をとどめた生月《いけづき》の村の方からくる源遠き峡水であるから、ここに棲む鰍の味が肥えているのは当然のことであろうと思ったのである。そこで私は、この丸煮よりも鰍|膾《なます》[#ルビの「なます」は底本では「まなす」]の淡白を所望したのであるけれど、生憎《あいにく》このごろは漁師が川業を休んでいるために、活き鰍が市場へ現われてこぬとのことであった。残念ながら、いたしかたない。それにつけて思いだしたのは、わが故郷奥利根川の鰍である。私は幼いころから、利根川の鰍に親しみ深かった。
 晩秋の美味のうち、鰍の膾《なます》に勝るものは少ないと思う。肌の色はだぼ沙魚《はぜ》に似て黝黒《あおぐろ》のものもあれば、薄茶色の肌に瑤珞《ようらく》の艶をだしたのもある。しかし、藍色の鱗に不規則に雲形の斑点を浮かせ、翡翠《ひすい》の羽に見るあの清麗な光沢をだしたものが、至味とされている。
 殊に、鰍の味と川の水温とに深い関係があった。上越国境の山々が初冬の薄雪を装い、北風に落葉が渦巻いて流れの白泡を彩り、鶺鴒《せきれい》の足跡が玉石の面に凍てるようになれば、谷川の水
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