美音会
佐藤垢石
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)銜《くわ》えた
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)今|摺《す》った
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)たおも[#「たおも」に傍点]と
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十一月二十七日夜六時頃、先輩の生駒君と一緒に有楽座の美音会へ行ってみる。招待席は二階正面のやや左に寄った所を三側ばかり取ってあるが、未だ誰も見えていない。しかし、他の席は殆ど満員という有様で、廊下には煙草を口に銜《くわ》えた[#「銜《くわ》えた」は底本では「街《くわ》えた」]人が多勢行ったり来たり、立談している人もあって、その中に、美しく着飾った貴婦人達が眼を惹《ひ》く。有楽軒の食堂もかなり繁昌している。演奏開始までには未だ二十分も間があるので、菓舗へ行って椅子に腰を下ろすと、強いコーヒーの匂いがする。一杯註文すると、今|摺《す》ったばかりなので旨《うま》い。菓子と柿を食って自分らの席へ帰り、じっと開始時間を待っている。
開演時間になって、朝日の半井君と、いま一人|歌沢《うたざわ》の好きな老人、万朝の中内、石井両君、都の何とかいう人たちがドヤドヤと入ってきて席を取る。間もなく幕が上がると、吉備舞《きびまい》が始まった。君が代、梓弓、神路山の三番が続けて舞われる。曲は何れもおとなしいもので、かつ楽手が皆芸人らしくない所が気持ちが良い。葭本幾野という歌手の声は、まるで場内から溢れ出すように透った良い喉なので聴衆は皆感嘆する。『佳い声だね、佳い声だね』とあちこちで言われる。
『長唄をやらしたら良いだろうね』と朝日の老人が黄色い声で言う。
『フーン』と桃水君が答える。
歌曲をじっと聞いていると悲壮な心持ちになる。舞はこれと反対に頗《すこぶ》る優雅だ。この悲壮と優雅との調和してゆくところに面白味がある。梓弓と神路山が良かった。殊に神路山の「上り下り」のところの舞は人を神代の夢に誘ってゆき、思わず恍惚とさせる。それに舞子は何れも十歳から十四、五歳くらいまでの少女なので可愛らしい。
楽長という人は鉄縁眼鏡をかけた、眼のギョロッとした人で、楽器を休めている時は、いつも四辺を気にしていた。
次の序遊の一中節。あの禿げた頭を前の方へ伸べて平たく座って見台を眺めたところを見ると吉備舞と異なって急に芸人臭い感じがした。渋い喉で蝉丸の山入が始まる。『一中は親類だけに二段きき』という川柳がある。それを聴衆は神妙に聞いている。さすが美音会の会員達だと思った。無事にすむと急霰《きゅうさん》のような拍手が起こった。
歌沢に入る前に二十分ばかりの休憩がある。背後にいる桃水君が、老人に向かって、
『一体芝派の節には艶がないね、今少し何とかなしようがあろうと思う』と言う。
『そうですね。どうも寅派の方に味があると思う』と答える。暫時談話がやんでいると、また桃水君が、
『あの婆さんは、一度止めたんだが、出て見るとやはり声が佳いものだから、近頃又始めたのだそうだ』
『ええ、とにかく芝派の元老ですからね』、芝土志の噂をしているらしい。桃水君は自ら三味線を執《と》って唄う自慢の歌沢が聞きたい。
まず芝土志が現われる。例の如く江戸時代の渋味を大切に、皺の間に保存しておくような顔で跋《ばつ》の足には大きな繻子《しゅす》の袋を冠《の》せて、外見を防いでいる。見るから感じのおだやかなお婆さんである。三味線は清子である。淡雪と枯野を楽に唄い退《の》ける。非常な喝采だ。『これだから誰でも歌沢が好きになるのだ』と背後の方で誰かが言う。
次に芝鈴が出た。四十歳ばかりの年増で、態度がちと無造作だ。私はこの人のを聞くのは初めてである。淀の川瀬と柱立を唄う。土志と変わって非常に大きな声で物にもよるだろうが唄い振り、節回しが頗《すこぶ》る粋だ。聞く人によっては鈴の方が好きだというかも知れない。
終わるとまず桃水君が『フフウン』と感じ入った。
『しかし芝土志は、枯野の田面をたおも[#「たおも」に傍点]と唄った。あれはたのと[#「たのと」に傍点]唄わなくちゃいけない。僕のところなら直ぐなおしてやるのだが』とこう独り言をいった。
私はその言葉を興味をもって聞いた。それは桃水君と寅千代とを並べて考えたからである。そして直ちに桃水君が神楽坂の寅千代の家へ行って、女に唄わせながら、そこはこう唄わねば文句の意味が現われないなどと頻りに訂正を試みているところを想像してみた。暫《しばら》くすると桃水君はフイと帰った。歌沢が終われば後のものにはもう用がないという風に。
ふと二階のボックスを見ると、吉備舞の連中が十二、三人ドガドガと入って来た。何れも立ったり座ったりしている中に、先刻神路山を舞った原杉多喜子のベールを頚《くび》に巻い
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