て下げ髪にした無邪気な姿が人々の注目を惹いた。梓弓の正時を舞った森八重子は可愛らしく五十ばかりの女の人に抱かれて、にこにこしながら何事か喋っている。
『君、今夜は伊達《だて》男が来ていなそうだね』と突然、生駒君が私に言う。
『そう、僕も先刻からあちこち眼を配っているが見えないようだ』
『あの人の姿を見ないと物足らぬ気持ちがする』
 実際、伊達男爵は美音会には婦人同伴で必ず欠かしたことがない。それが今夜に限って来ておらぬ。不思議であった。それに、一中節の好きな大倉さんが来ておらぬのも不思議であった。
 やがて杵屋《きねや》連中の越後獅子が始まる。六葉奈の高島田が大分人の眼を惹いたようであった。
 休憩時間がまた二十分ばかりある。廊下へ出ると人々が『呂昇がいる。呂昇がいる』と囁いていた。それを耳にしてふと前を見ると、直ぐ五、六歩離れた所に呂昇が、洋服を着けた背の高い五十格好の人と立話している。例の如く銀杏《いちょう》返しに結って、金縁眼鏡をかけ、羽織は黒縮緬の三つ紋で、お召の口綿を着ている。私は呂昇を素顔で見るのは初めてだ。なるほど老けている。四十の坂を余程越した、中婆だ。落ち付き払って衆人環視の中に男の人と何かの打ち合わせをしているらしかった。私は遠慮もなくジロジロとそのやや肥った姿を見ていると、階段を上がってきた芸妓の三人連れが呂昇を発見して、
『先日は……』と丁寧に頭を下げた。
『先日は』と呂昇も頭を下げて笑って見せたが、その表情は頗る拙いものだった。顔色も薄青い。それが白粉《おしろい》と口紅を塗って高座へ登り、血の滴れるような唇から豊かな、洗練された音声を溢れ出させて聴衆の頭を撫でてゆくことを考えると不思議のような心持ちがする。席に復すると生駒君が、
『柳沢伯が来ている。感心に良く来る人だね』と言う。
 見ると直ぐ[#「直ぐ」は底本では「直く」]左のボックスに腰をかけて、居眠りをしている人が柳沢伯だ。痩躯に薄茶の背広を着け、赤靴をはいた貴公子だ。
 いよいよ大隅の娘景清が始まった。聴衆鳴りを鎮めて、一心に大隅の幅広い顔を見る。この人は一口語ると手布で口を拭う。それが愁嘆場へ行くと非常に頻繁になってついには手に持った手布を打ち振るようなことをする。聞く人の眼障りになる。大隅が語り出すと私らの右の方の空席へ二人連れの女が入った。横眼で見ると岡田八千代女史と呂昇君だ。
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