楢の若葉
佐藤垢石
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)雪代《ゆきしろ》水
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)はや[#「はや」に傍点]
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いま、想いだしても、その時のことがはっきりと頭に浮かび、眼にも描かれる。
三十五、六年前の四月二十四日のひる前であった。私は十二、三歳の少年。父は三十七、八歳。溢れるような元気に満ちた壮者であったに違いない。
はや[#「はや」に傍点]は、利根川の雪代《ゆきしろ》水を下流から上流へ上流へと遡《のぼ》ってきた。はや[#「はや」に傍点]という魚は、おいしいとほめるほどでもないが、産卵期が近づくと、にわかに活動が盛んになってきて、頭から横腹、尾の端まで紅殻《べにがら》を刷いたように薄紅《うすべに》の彩《いろどり》が浮かび、美装を誇るかに似て麗艶《れいえん》となるのである。そして腹の小粒の卵に、ある一種の風味を求めて、私の村の人々は毎年春になると、遠く下総国《しもふさのくに》の方から遡ってくるはや[#「はや」に傍点]を、飛沫をあげて流れる利根川へ釣りに行った。
その朝まだ薄暗いうちから、私ら父子も田んぼの畔まで母に送られて家を出て、利根川の崖下まで行ったのである。
父は二間半の竿を巧みに使った。私は、軽い二間半で道糸に水鳥の白羽を目印につけ、暁の色を映しゆく瀬脇の水の面《おもて》を脈《みゃく》釣りで流した。
少年の私にも、忙しいほど釣れたのをみると、その頃の利根川には、ずいぶん[#「ずいぶん」は底本では「ずんぶん」]数多くのはや[#「はや」に傍点]がいたのであろう。二、三時間で、魚籠《びく》は一杯になった。魚籠の中で、バタバタと跳ねる魚の響きが、腰に結《ゆわ》えた紐から身体に伝わってきて、何とも快かった。
腹がすいてきた。
『もう、帰ろう』
父は、にこにこしながら私を顧みて言った。もう朝の陽《ひ》は一ひろほども空へ昇っていた。晩春の朝の微風が、砂丘の小草の若葉を撫でながら渡ってきて、糸の目印の羽毛をひらひらと動かす。
みぎわの小石には、微かにかげろうが揺れはじめていた。
私は父の言葉に心で応《こた》えて、口では答えなかった。それほど魚の当たりが忙しい。いまの目印の動きは、魚の当たりか、風の煽《あお》りか、その判断に固唾《かたず》をのんでいる時に『帰ろう』と言う
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