んなわけではない。四十銭ではあまりに安値すぎる。そこで、朝夕もう一、二品ご馳走を添えることにして、もっと充分な値段らしい値段を請求するようにして貰いたいというと、主人は承知いたしましたと答えるのである。
期待の通り、その夜から小皿や汁物などが前夜までより一、二品ずつ多い。朝も生玉子などが添えてある。おいしい。
二、三日すぎてから私は、宿の主人を呼んで、今度は旅籠料をなんぼ値上げしたかと問うてみた。すると主人は、またも恐縮らしい顔をして、この辺にはこんな高い値段はないのですが、一泊三食四十五銭いただくことにいたしました。はやどうも、お気の毒さまにございますという。
それから七、八年過ぎて、再びこの謙井田で金四十銭の旅籠料にめぐり会った。
君、婆さんに充分な心づけをやらないと、四十銭の旅籠料では、まことに相すまんような気持ちがするね。せめて、一人当たり一円くらいの勘定で払って置こうじゃないか。
私は、婆さんが帳場の方へ受取を書きに去ったあとで、雨村に囁いた。
よし分かった。だが、それは僕の手加減に任せて置いてくれ。
雨村はもう、万事承知しているかのようである。
生の鮎は、佐川町まで持って帰れない。そこで毎日釣った鮎は、塩焼きに焼き大皿に山盛りに盛り上げて、毎夕三人で腹一杯食べた。食べきれないところは、乾物をこしらえ、塩漬けにした。それを風呂敷に包み、荷物に作ってから、雨村は旅籠料を支払った。
私らは婆さんに、長らく厄介になった挨拶を厚く述べた。ところが婆さんは私らに比べて何倍かの丁寧さで、過分の心づけを頂戴し冥加至極でありますという意味を、繰り返し唱えて、頭を下げるのだ。
表の路へ出て、山端の角を曲がってから、私は雨村に、婆さんはひどく喜んだらしいが、いったいいかほど心づけを置いたものかね。と問うたのである。雨村はこれに答えて大したことはない。一泊三食四十銭というから、十銭だけ増してやって、一人当たり五十銭宛の勘定にして支払ってやったのさ。
私は、また驚いたのである。
君、そんなに驚かんでもよろしいのだよ。君ら東京人の気持ちからすれば、あまり安いのに感激して一泊一円も二円も払いたいところであろうが、それはかえって無意味なことになる。結果がよくない。いったい、ここらあたり僻地では、茶代というものは一人一泊で五銭か十銭にきまっているものだ。それだけで、貰う方は客の行為に対して充分に満足している。であるのに、旅籠料の三倍も四倍もの心づけを置くのは、無計算ということになる。相手の気持ちの寒暖計は、十銭だけで目盛りの頂点に達しているから、それ以上いかに多くの心づけを置いたところで、目盛りが上がるわけがない。かえって、この客は銭勘定を知らぬ人間、銭を粗末にする人間であるとして、卑下の気持ちを起こさせるだけだ。良薬にも過量があるから、効くからといって、無闇《むやみ》に量を多くのんだところで、かえって害になる。なにも、強《し》いて多くの金を払って、相手の気持ちを不純にせんでもよかろうじゃないか。
雨村は、夏の陽《ひ》に真っ黒にやけた顔の眼、口、鼻のあたり、筋肉を揺すって高く笑った。
そんなものかなあ、雨村の説明するところをきいて、無上に感服したのである。
五
その後、森下邸に八月中旬過ぎまで滞在して、あちこちの川や海を釣り歩き、再び京都へ戻って、南紀州の熊野川行を志した。この行には、姪夫妻も加わった。八月上旬に紀勢線が紀州東端の矢の川峠の入口の木の本まで通じたので、六月の旅のときとは違い、楽々と大阪天王寺から一路車中の人となることができた。途中で、勝浦の越の湯に一泊し、翌朝姪夫妻は新宮からプロペラ船に乗って瀞へ行き、私ら親子は新宮の駅前からバスに乗り、五里奥の日足の村へ向かった。
日足の宿では一泊一円五十銭、随分と多くご馳走がある。毎夕おしきせに、麦酒が二本。これは勿論《もちろん》旅籠料のほかだが、今の相場から見れば、ただに等しい。
この村の前の熊野川には、上流にも下流にも連続して立派な釣り場がある。鮎の大きさは七、八寸、一尾二十匁から三十五、六匁ほどに、丸々と肥っているのである。
まことに盛んに、私の竿にも伜の竿にも、大きな鮎が掛かった。
熊野川の鮎は、日足から上流一里の河相まで遡ってくると、左へ志すのは十津川へ、右へ行くのは北山川へ別れてしまうのであるが、十津川筋へ入った鮎は残念ながら風味に乏しいのである。この川の岩質は、鮎の質を立派に育てない。それは、火山岩か火成岩が川敷に押しひろがっているからである。火成岩を基盤とする山々を源とする川の水質は、水成岩の山々を源とする水に比べると、どういうものかその川に育つ鮎は香気が薄い。そして、丸々とは肥えないのである。殊に、脂肪が薄い憾みが多い。
これは
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