船に乗り、室戸岬の鼻を船がまわる頃は、もう太陽が太平洋の波の上へ昇っていた。私は、明治四十五年の初冬、悲しい運命の旅にこの船路を選び、同じ景色を同じ朝の時間に、この船の窓から眺めたが、陸の彩も海の色も、眼に映るいろいろが、心と共に暗かった。
 しかし今度は、既に中等学校の上級生になった伜を伴った楽しい旅である。見るもの、感ずるもの、悉《ことごと》くが明るい。船の窓から見る名勝室戸岬の風景も、三十数年前の昔とは、まるで趣が異なる。殊に立秋後の澄んだ明るい空気を透して、朝靄が岬の波打ち際に白く、またそして淡紅に輝き、南へ南へと続く漁村と松原が、あしたの薄い靄にぬくもっているではないか。
 海雀の群れが、波間に隠見する。かもめが舞う。岬の突端を彩る深緑の樹林は、山稜を伝って次第に高く行くにつれ、果ては黒く山の地肌を染めて、最後には峰の雲に溶け込んでいる。遠い山腹に、金色に輝く一点がある。その一点から発する光線は、稲妻に似て強くまぶしく眼を射るのである。あれは、山村の物持ちの家の縁側の硝子障子に、朝陽が反射するのであろうか。
 なんと静かな、親しみ深い風景であろう。南国の眺めは、旅心に清麗《せいれい》の情を添えてくれるのである。

   三

 午《ひる》すこしまわった頃、汲江の奥の高知の港へ着いた。森下雨村は、数日来坐骨神経痛に悩まされ、臥床しているというので、美しい森下夫人が可愛い十歳ばかりになる坊やと共に、私ら親子を波止場まで迎えにきてくれた。
 雨村の邸は、高知から西方六里の佐川町にある。そこから、わざわざ夫の代わり、親の代わりとして私らを迎えてくれたのである。波止場の改札口に、佐藤垢石様と書いた半紙を、二尺ばかりの棒に吊るして、十歳ばかりになる少年が、あまたの旅人を品定めしているのを私らは行列の後ろの方からながめた。
 雨村の病気は、予想したよりも早く快方に赴いた。佐川町から六、七里離れた仁淀川の中流にある謙井田の集落へ、雨村と私と伜と三人で、竿をかついで行ったのである。ここは、仁淀川の中流というけれど、左右から高い山と険しい崖が迫った峡谷である。流水には、家ほども大きい岩があちこちに点在して、水は激しては崩れ、崩れては泡となり、奔湍《はんたん》に続く奔湍が、川の姿を現わしている。
 川底の玉石はなめらかに、水は清く、流れ速い。そして、ところどころの崖かげには、泡寄りを浮かべて緩やかに渦巻く碧い淵が、清くよどんでいる。この仁淀川は、鮎が大きく育ち、数多く棲むのに絶好の条件を備えていると思う。
 謙井田で、三人は五、六日釣り耽った。はじめて仁淀川を見たときに、立派な流相を持っていると感じた通り、この川には大きな鮎が数多くいた。三人は来る日も来る日も、我れを忘れて水際を歩きまわった。
 ここの宿は、旅館を営業しているのではないが、毎年夏になると遠くからくる釣り人を泊めるのを慣わしとしていた。雨村は、この宿と古いなじみである。宿を去る朝、雨村は勘定してくれといった。すると、宿の主人の六十五、六歳になる律気な婆《ばあ》さんが一日一人四十銭ずつでよろしいと答える。もちろん、朝夕二食に昼の弁当つき、布団《ふとん》つき間代まで含んでいるのだ。
 婆さんの答えをきいて、雨村は当然であるといったような顔をしている。私は、婆さんと雨村の二人の顔を見くらべて、心の中に驚いたのである。
 昭和十五年といえばもう支那事変が起こってから五年目になる。世の中には、そろそろ統制経済だとか、公定相場だとかという言葉をきくようになり、都会では生活物資が次第に少なくなり、物の値いが高くなっていくのに驚いているときである。であるのに、ここの宿料はどうしたことか。
 たとえ、老婆は古い顔知りの雨村のために、特に旅籠《はたご》料を安くして置くとかいう含みが言葉にもなく、表情にもない。また雨村は、平然としてこれを感謝している風もない。

   四

 私は、今から十五、六年前、裏飛騨の吉城郡坂上村巣の内へ、鮎釣りの旅に赴いたことがある。この村の地先は、越中国を流れる神通川の上流である宮川の奔湍《はんたん》が、南から北へ向かって走っていて、昔から一尺に余る大きな鮎を産するので有名である。
 その頃は、まだ富山から高山へ汽車が全通していないので、巣の内は軌道敷地の工事最中であった。ここの宿では、大きな鍋を爐《ろ》にかけて鍋めしを炊いていた。
 ある朝、私は宿の主人に試みに旅籠《はたご》料はいかほどであるかと問うたのである。ところが、主人は恐縮した顔で、なにかお気に召さぬことでもあったのでしょうか。旅籠料は一泊三食金四十銭でありますけれど、それでお高いと思し召すなれば、もっと安値にして置いても結構でありますと答えるのである。それをきいて、私の方では恐縮してしまった。
 いやそ
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