後の魚野川の釣趣を味あわせたいと思ったからである。
伜の方は、越後国南魚沼郡浦佐村地先の魚野川の釣り場を克明に知りつくしているから、娘の方には北魚沼郡小出を中心とした地方の釣り場に親しませたいと考えた。折りから、伊豆狩野川の釣聖中島伍作翁も来合わせていたので、私と娘と三人で、一週間ばかり楽しくあちこちと釣り歩いた。
最後に、魚野川が信濃川に合流する上手一里ばかりの越後川口町の勇山の簗場《やなば》近くへ娘を連れて行った。この日は、一切娘の釣りに干渉するのをやめて、娘が思うがままに振る舞わせてやろう。しからば、どんなによく友釣りの技がなまやさしいものではないということが分かるであろうと考えた。
中島翁にも、私にもちょいちょいと、数多く掛かる。しかし、指導の拘束から解放された娘には、朝から鈎に殆ど掛からぬといってよいほどの不成績である。ときたま掛かることがあっても、ザラ場の勾配のある瀬では出足が伴わぬ。掛かるたびに囮ぐるみ道糸を切られてしまう。
そこは、川口町から十日町へ通う鉄道の橋のかみ手の瀬であったから、午後は簗場の尻の瀞場へ案内してやった。ここは、富士川の鉄橋のしも手の瀞場の条件によく似ている釣り場である。娘は、富士川のときと同じ竿と道糸と鈎と目印をつけた仕掛けで釣り場に対したが、やはり父の心が娘の持つ竿に通っておらねば、川の鮎はこれを相手にせぬらしい。
でも、懸命に辛抱しているうちに、大物が娘の竿に掛かった。途端に、プツンと道糸が切れ囮鮎と共にどこかへ行ってしまった。娘は、べそを掻いている。
魚野川は、上越国境の茂倉岳から西へ続く谷川岳と万太郎山の裏山の谷間に源を発している。そして、南越後の峡谷を北へ向かって白く流れて二十里、この川口で大きな信濃川に合している。一つの支流ではあるけれど、水量は相模川の厚木地先あたりに比べると、さらに豊かだ。清冽の流水は、最上の小国川に比べてよいと思う。
上流の土樽、中里あたりはまだ渓谷をなしていて、山女魚《やまめ》、岩魚《いわな》の釣りばかりであるが、湯沢温泉まで下ると、寺泊の堰の天然鮎を送ってきて放流している。石打、塩沢と次第に中流に及ぶほど鮎の育ちは大きく、川の幅も広くなるのである。このあたり景観も大きい。頭の上に、上越国境を遮る六千五百尺の中ヶ岳が、屏風《びょうぶ》のように乗りだしていて、それから北方へ八海山、越後駒ヶ岳が雄偉の座を構えて続いている。立秋を迎えれば山頂の気も、山村の気も澄んで、天はますます高いのである。表日本の初秋は天爽やかなりといっても、大空のどこかに靄を含んでいる。しかし、越後の初秋の気には、微塵《みじん》も塵の澱みを見ぬ。満洲の初秋の気に相通じる。
六日町の地先で三国川を合わせると、俄《にわか》に良質の岩塊を交え、水は豊富となり、流れ流れて浦佐、小出町に及ぶと、もう大河の相を呈しはじめる。小出町地先で破間《あぶるま》川を合わせると、川底の石もさらに大きく瀬の流れも一層速く、鮎は満点の条件をもって育つのだ。
破間川と魚野川の合流点の、秋草に満ちた広い河原から南東を眺めた山々のただずまいはほんとうに美しく荘厳である。八海山と駒ヶ岳に奥会津に近い中ヶ岳が三角の顔をだして、山の涼しさを語っている。銀山平や、六十里越、八十里越あたりの連山に眼を移せば、旅にいて、さらに旅心を唆《そそ》られるのだ。
堀の内から、川口までの間の二つ三つの荒い瀬に、魚野川筋随一と称してよろしい大きな鮎が棲んでいる。姿は肥って大きい。香気も高い。風味もよい。殊に魚野川の畔には上流下流通じて、産米が豊富である。私の大好物である醇酒にも恵まれている。
今年は、気まぐれな戦争から解放されたはじめての鮎釣り季節を迎えて、またこの魚野川に伜や娘を伴い、一夏を楽しく過ごしたいと、ひたすら希《ねが》う。
底本:「垢石釣り随筆」つり人ノベルズ、つり人社
1992(平成4)年9月10日第1刷発行
底本の親本:「釣随筆」市民文庫、河出書房
1951(昭和26)年8月発行
初出:「続たぬき汁」星書房
1946(昭和21)年発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2007年5月5日作成
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