と、がばと驚いて騒ぎはじめるものである。そこに、瀞場の友釣りの妙趣を感ずる。
掛け鈎を丁寧に研いで、新しい囮に取り替えてから、再び竿を娘に渡した。やはり娘は、無心の姿で竿の方向は四十五度、目印は水面一寸の場所、この掟を固く守って、水際に立った。またすぐきた。
今度も、私は娘から竿を取って、掛かり鮎を手網に入れた。こうして、僅かに一時間ばかりの間に、立派な鮎を娘は七、八尾掛けたのである。さきほどから、この瀞場で釣っている三、四人の釣り師があった。どうしたものか、その釣り師たちの鈎には一尾も掛からない。この瀞場には、数多い鮎がいる。ということは承知しているのであるけれど、瀞場の友釣りについて、あまり深い造詣を持たぬ人達かも知れない。
その人達は、私ら父娘が、娘が忙しく釣り私が忙しく手網に入れる姿を注目していたが、とうとう三、四人の人々は竿を河原に置いて私らの近くへ集まり砂の上へ腰を降ろしてうずくまり、私ら父娘の釣りを観察しはじめた。
疲れたので、一服していると、人々は私の傍らへきて、そのうちの一人が私に、あなたは垢石さんですかと問うのである。そうであると答えると、そうですか流石《さすが》になあ、娘さんでさえも――と、幾度も感嘆の声を発するのである。感嘆する一人は、どこかの釣り場で一度か二度見かけた顔だ。
十一
昼近くなったので、飯を食べに一旦宿へ引きあげることにした。そこで私は娘に、お前はもう十尾ほど掛けたかも知れない。しかし、きょうはじめて釣った鮎は、お前の経験や腕前で釣ったのではないのはお前も分かっていよう。ところで、経験や腕前もないほんの初心者になぜ瀞場の鮎が盛んに掛かるかということが問題だ。それはつまり、お前は傀儡《かいらい》であるからである。竿を持った人形が、人形使いの意のままに動いて観衆を感動させたということは、人形に人形使いの精神と技術とが乗り移ったからであるといえよう。この瀞場の鮎を釣るのに適した道具立てを持ち、そして父が教えるそのままの技術を踏んで、少しの私心を交えず竿を操ったから鮎が掛かったのである。いわばお前と父とは、個体こそ違え、釣りの意と技に伝える人格が一致したのだ。たとえば、父が自ら釣ったのと同じであったのである。
ところで、父の眼がお前の釣り姿から離れると、不思議に俄然川鮎は囮鮎に挑み掛かってこぬであろう。つまり、釣れぬのである。それは、父の眼が離れるとお前は、自らの心に帰り、自らの釣り姿に帰るためだ。自らの心、自らの釣り姿というのは、お前が友釣りについては真の初心者である正体を指すのだ。友釣りについて、真の初心者にはこの瀞場は一尾も釣れぬ。だが、お前は将来常に父を指導者として、己れの傍らに置くわけにはいくまい。きょうは竿の上げ下げにも、足一歩運ぶにも、やかましくお前の自由を束縛したけれど、これから後はきょうの指導を基礎としてお前の工夫と才覚と思案とをめぐらして、自由に気侭に釣ってみるがよい。
そこでお前の感ずることは、己れ一人の工夫、才覚、思案というものが、どんなに心をちぢに砕かねばならぬ難しい業であるのかを知るであろう。そこで、この友釣りは己の工夫を加えれば加えるほど釣れぬようになるものだ。研究すればするほど、勉強すればするほど釣りの道の深さが身にこたえ、野球の選手が打球に苦心していくうちに、一次スランプに陥《おちい》るのと同じように、友釣りの技もどうにもこうにも自分の力では行なえ得ぬ日がくる。
そして、苦心に苦心を重ねた末、十年か二十年の修行の果てに、お前にめぐってくるものは、きょう父がお前の手を取り心を抑え、教え導いた傀儡の釣り姿である。結局、生まれたときの、無心の姿に帰るのだ。
そこではじめて、友釣りの技がお前の身につくのである。この父の言葉を忘れるなよ。
それは、ひとり釣りの道ばかりではない。人生の路、悉《ことごと》く同じである。芸術でも宗教でも、学問でも商業でも、武道でも政治でも、研鑽《けんさん》と工夫に長い年月苦心を重ね、渡世に骨身を削るのである。世間というものは学校にいるとき夢みたように簡単にはできていない。身を悲観する人もできようし、世を呪う人も現われてこよう。しかし、その鏤刻琢磨《ろうこくたくま》の間に進歩がある。そして、ある年令に達すると、つね日ごろ物に怠らなかった人にのみ、幼きときに我が心に映し受けた師聖の姿が、我が身に戻ってくるのである。
父の友人、小説家井伏鱒二が、文章というものは上達に向かって長年苦労を重ねてきても結局は松尾芭蕉の風韻《ふういん》に帰るのだ。と、いったことがある。釣りも人生も、同じだ。お前は、きょう富士川の水際に立った己れの無心の姿を生涯忘れてはならんぞ。
十二
その年の八月中旬、私は再び娘を友釣りに伴うた。越
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