ぬのである。それは、父の眼が離れるとお前は、自らの心に帰り、自らの釣り姿に帰るためだ。自らの心、自らの釣り姿というのは、お前が友釣りについては真の初心者である正体を指すのだ。友釣りについて、真の初心者にはこの瀞場は一尾も釣れぬ。だが、お前は将来常に父を指導者として、己れの傍らに置くわけにはいくまい。きょうは竿の上げ下げにも、足一歩運ぶにも、やかましくお前の自由を束縛したけれど、これから後はきょうの指導を基礎としてお前の工夫と才覚と思案とをめぐらして、自由に気侭に釣ってみるがよい。
 そこでお前の感ずることは、己れ一人の工夫、才覚、思案というものが、どんなに心をちぢに砕かねばならぬ難しい業であるのかを知るであろう。そこで、この友釣りは己の工夫を加えれば加えるほど釣れぬようになるものだ。研究すればするほど、勉強すればするほど釣りの道の深さが身にこたえ、野球の選手が打球に苦心していくうちに、一次スランプに陥《おちい》るのと同じように、友釣りの技もどうにもこうにも自分の力では行なえ得ぬ日がくる。
 そして、苦心に苦心を重ねた末、十年か二十年の修行の果てに、お前にめぐってくるものは、きょう父がお前の手を取り心を抑え、教え導いた傀儡の釣り姿である。結局、生まれたときの、無心の姿に帰るのだ。
 そこではじめて、友釣りの技がお前の身につくのである。この父の言葉を忘れるなよ。
 それは、ひとり釣りの道ばかりではない。人生の路、悉《ことごと》く同じである。芸術でも宗教でも、学問でも商業でも、武道でも政治でも、研鑽《けんさん》と工夫に長い年月苦心を重ね、渡世に骨身を削るのである。世間というものは学校にいるとき夢みたように簡単にはできていない。身を悲観する人もできようし、世を呪う人も現われてこよう。しかし、その鏤刻琢磨《ろうこくたくま》の間に進歩がある。そして、ある年令に達すると、つね日ごろ物に怠らなかった人にのみ、幼きときに我が心に映し受けた師聖の姿が、我が身に戻ってくるのである。
 父の友人、小説家井伏鱒二が、文章というものは上達に向かって長年苦労を重ねてきても結局は松尾芭蕉の風韻《ふういん》に帰るのだ。と、いったことがある。釣りも人生も、同じだ。お前は、きょう富士川の水際に立った己れの無心の姿を生涯忘れてはならんぞ。

   十二

 その年の八月中旬、私は再び娘を友釣りに伴うた。越
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