。
十
語り終わって、私は娘にこれでよろしいと言った。娘は私の言葉の通りの姿勢を作り、竿を空に向けて四十五度の角度に立て、目印が水上一寸のあたりにひらひらとするよう、竿の位置を定めると、囮鮎は私が予言したように、いったん沖へ向かってのし、それから上流下流へと縦横に泳ぎまわるのである。
私は、娘の背後から、道糸の囮鮎の動くままに曳かれて、水上を前後左右に往きつ戻りつする白い目印の微妙な消息に、深い注目を払っていた。すると、娘が竿を水に突き出してから僅かに二、三分をへたとき、目印の揺曳《ようえい》に異状を認めた。私は、多年の経験によって、瀞場の鮎が囮鮎を追って、ついに掛け鈎にからだのどこかを縫い通されたのを知った。
どうじゃ、竿を持つ手に、いま何となく感覚の変化を感じないか。
と、娘に問うたのである。
そうね。そういえば少し竿先から微妙な変化が伝わってきますね。
娘は、なお懸命に目印の移動に心をとめているのだ。
そうだろう。もう鮎が掛かったのだ。竿先を、さらに一尺ばかり上方へあげてご覧。
竿先が一尺ばかりあがると、果然激しい勢いをもって沖の方へ走りだした。これは、鈎に掛かった鮎が、道糸の緊張に刺戟されて、遁走の行動を開始した表示である。こうなると、もう娘には竿を支えきれない。強く引き戻せば、細い道糸は僅かな、はずみで切れてしまう。やわらかく竿を振れば、竿を持ち去られそうになろう。鮒釣りに数回ほどの経験を持ったのでは、七月の鮎が友釣りの掛け鈎に掛かった場合、到底、その力をあしらいかねるのが当然である。
娘は腕をふるわせ、顔の筋肉を緊張させ、眼をみはり、口でなにか私に訴えようとするのであるけれど、咽《のど》から声が出ない。
私は、娘の手から竿を取った。そして、静かに竿を立て、徐《おもむろ》にあしらいつつ、手許へ引き寄せて、掛かった鮎を手網のなかへ吊るし入れた。長さ七寸あまり、三十五匁はあろうと思う。
瀞場の鮎は、鈎に掛かった瞬間、微少の衝動を目印に感ずるのが、急流の鮎と異なって、鈎に掛かるや否や、男の足でも追いつけないほどの速さで、下流へ[#「下流へ」は底本では「下流で」]走りだしはしない。鈎に掛かった場所から遠方へは走らないで、あたかも鈎の痛さなど知らぬかのように、平然として囮と共に静かに泳いでいるが、ひとたび竿を立てて、道糸に張りをくれる
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