きのある親しみ深い空気が流れていた。熊野神社の境内もおごそかである。ここの宮司も、友釣りの大の愛好者で、私の著書の愛読者でもあった。
朝夕の新涼を、肌に快く感ずる頃、日足の熊野川に別れ、遠州の奥西渡の天龍川を指して新宮から木の本、矢の川峠、尾鷲をへて、伊勢の宮川に添いつつ相可口に出たのである。西渡の天龍川で釣ったのは僅かに半日で、翌日から台風に襲われ、天龍の山鮎の大物に接する機会を得なかったのである。天龍の鮎は上等の質とはいえないけれど、形の大きいのと力の強いのでは、飛騨の宮川と並び称されるであろう。
七
娘がいうに、兄さんばかり釣りに伴って私ばかり家に置いていくのは不公平でしょう。と父に苦情を持ち出すのである。
そこで、私は兄妹を伴い巣離れの鮒《ふな》を狙い、水之趣味社の人々と行を共にして、千葉県と茨城県にまたがる水郷地方へ釣遊を試みたことがある。それは、娘が女学校の一、二年の頃であった。それから、千葉県の手賀沼へも二、三回鮒釣りに連れていった。そして、帰り途に草餅や串カツなども釣った。
海釣りにも誘ったが、娘は同意しなかった。伜は、伊豆の網代へも、浦賀の隣の鴨居にも下総の竹岡へも鯛釣りに同行した。そして、観音崎と富津の岬の間に漂う東京湾内の静かな海の底から、鮮麗、眼を欺《あざむ》くばかりに紅い真鯛《まだい》を釣り上げさせたが、どういうものか伜は海釣りに深い興を起こさぬ。
やはり、川釣りの方が面白いという。鮎釣り、山女魚《やまめ》釣り、はや釣りの方に面白味を持つという。寒烈、指の先が落ちさるような正月のある日、茨城県稲藪郡平田の新利根川へ寒鮒釣りに伴ったが、それでも海釣りよりも淡水で、糸と浮木《うき》の揺曳《ようえい》をながめる方が楽しめるという。
海は、伜の性に合わぬのかも知れない。
日ごろ娘は、友釣りを教えてくれとせがんでやまないのである。そこで、昭和十八年の七月、東海道岩淵地先の富士川へ伴って行った。私はこの年の六月中旬、中島伍作氏や宮坂富九氏らと共にやはり岩淵の富士川橋の袂《たもと》の宿に滞在して釣っていたのであるが、富士川の上流に豪雨があって濁ったため、一日興津川へ遊びに行った。
興津川も共に濁ったのではあったけれど、澄み足の早いこの川は、既に笹濁り程度に澄んで、二、三日したら釣れはじまる見込みはついた。しかし試みに竿を下ろして
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