、火成岩や火山岩に発する水には、鮎が常食として好む良質の硅藻《けいそう》、藍藻、緑藻などが生まれぬためであろうと思う。
 それに引き替え、北山川の水を慕う鮎は、まことに立派な姿と香気とを持っているのである。河相の合流で見れば明らかに区別されるように、十津川の川底の石は灰色に小型で、粗品であるのに、北山川の石は大きく滑らかに、青く白く淡紅に、この川の上流である吉野地方一帯に古成層の岩質が押しひろがっているのに気づくであろう。
 また十津川の鮎の腹には小砂が入っているけれど、北山川の鮎の腹には砂がない。やはりこれも、岩質からくる関係であるかも知れぬ。
 北山川は、木津呂、下瀞、上瀞をへて次第に上流へ遡るほど、鮎の姿も味も香気も立派になるのである。さらに、三重県東牟婁郡七色方面まで遡れば、鮎は七、八十匁の大きさに育ち、七月の盛季には、背や頭の細かい脂肪がほどよく乗って、塩焼きにも、刺身にも天下の絶品のうちに数えられる。

   六

 伜も、ちかごろ友釣りのわざがなかなか巧くなった。熊野川では親に負けないほどの成績をあげたのであった。
 この子に、はじめて友釣りのわざを教えた場所は、常陸国久慈郡西金の地先を流れる久慈川の中流であった。それから、磐城国植田駅から御斎所街道へ西へ入った鮫川の上流へも伴って行った。駿河の富士川へも、遠州の奥の天龍川へも、伊豆の狩野川へも連れて行って腕をみがかせたのである。越後の南北魚沼郡を流れる魚野川へは二、三年続けて引っ張りだして六日町、五日町、浦佐、小出、堀之内あたりで竿の操作を仕込んだ。
 そんなわけであるから、少しは上達するのが当然であろう。
 八月末になって、学校の始業に遅れぬよう伜は親を残して、一足さきに矢の川峠を越えて帰京した。私は、それからもゆるゆると熊野川の水に親しんでいたのである。
 東牟婁郡は三重県であるが、西牟婁郡は和歌山県である。その郡境を熊野川は、西方の深い山々の間から東に向かって流れ、太平洋に注いでいる。和歌山県側の日足の村から対岸の三重県側にある高い丸い山々と、麓に眠る村々の風景は、まことに静かである。殊に、日の出前に、淡い朝霧が山の中腹から西へ流れる趣は、浮世の姿とは思えない。
 新宮へも一泊した。泊まった熊野川の橋の袖鉱泉宿は構えが大きいだけで、まことに不親切であったけれど、新宮の街は道が狭いとはいえ、落ちつ
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