ぐ、私の長女として故郷の村役場へ出産届けをだした。私の祖母に八十六歳まで長寿を保った人があったので、それにあやかるためその名を頂戴して、みゑ子と名付けたのである。
人々の意見で、藁の上から引き取るということは、やめた方がいいとなった。つまり、私の家内ははじめて子持ちになることであり育児には経験がないのであるから、乳離れするまでは京都へ預けておく方がよろしいというのである。老父も妹も、私のところへ喜びの手紙をよこした。
産まれて一年ばかりたったとき、堪らなくなって私と家内は連れ立って京都へ行った。みゑ子は肥って可愛い。そして割合にわせの児で、もう障子の棧につかまって、座敷を横歩きに歩いていた。乳を離しても、差し支えあるまいということは誰にも分かる。私らと姉と三人で、みゑ子を東京の家へ連れてきた。
姉は、みゑ子が私の家内になつくまで、東京にいて、京都へ帰って行った。帰るとき私が東京駅まで送ってゆくと姉は横を向いて、そっと涙を拭っていた。
春が俄に私の家庭を訪れたのである。だしぬけに母となった家内は人工哺乳に、洗濯に、縫物に、乳母車を押して散歩に、朝から暮れるまで眼がまわる程の忙しさであった。みゑ子が手離しで歩きだしたと言って笑い、転んだと言っては騒ぎ、家のなかはいつも薫風《くんぷう》瑞雲《ずいうん》が漂った。
みゑ子は、風邪《かぜ》一つひかないですくすくと育った。月日は夢の間に流れて、三歳の春を迎え、みゑ子は片言まじりに歌などうたった。
話はさきに戻るが、みゑ子が京都で産まれたころ、故郷では私の若い弟に嫁を迎えた。それは私が長い間、故郷を離れて諸方を巡歴しているために、家の業である農のことがなげやりになっている。それでは祖先に申し訳ないという父の意見で、若い弟に嫁を迎えて足止めし、それに農のことを担当させようとしたのである。
弟は嫁を迎えると、一年たつかたたぬうちに子供をこしらえた。しかし、弟は病身であった。産まれた子供が数え年二歳――生後六、七ヵ月のころ弟はとうとう病死した。これは、みゑ子が三歳の春を迎えたときであった。
私の故郷では、弟の遺児を誰が育てるかということと、若い未亡人の処置とが人々の頭を悩ました。子供は、佐藤家の子供であるからこれは大して問題でないにしても、まだ二十歳を出たか出ない未亡人の前途は、甚だ長い。このまま、婚家へ止めて置いて一生
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