の間から流れて帯のようにくねって曲がり、下流は悠々と流れて霞の中に消えている。折りから雨はれて、水蒸気が霞か靄に変わったのであろう。果てしない大陸の平野は夢のように淡く続いている。朝鮮の霞だ。京城では、大陸へきたという感は起こらなかったがこの牡丹台から眺める雄大な景観に接して、はじめて遠い国に旅してきたという思いを催したのである。
 玄武門も見た。大きな門ではなかったが、昔子供時代に原田重吉がこの門を乗り越える木版画を見たのを思い起こして、ある感慨に打たれた。
 ゆるやかに流れる大同江の水上に、画舫《がほう》がいくつも浮いている。牡丹台の岸にれんげが咲き始めた。
 山の中腹にある平壤博物館へ行った。既に時間が過ぎて閉門したのであったが、遠来の客とあって館長が特に案内して中を見せてくれた。楽浪《らくろう》の遺物が大部分を占めている。二千余年前の朝鮮にこんな文明があったのかと思って驚嘆したのである。漆器美術の巧緻《こうち》なことは、我々芸術を解せぬ者にも、当時の人の雅趣が思われたのだ。楽浪の墓陵を移して再現したものも見た。構成の偉大な、調度の配置の美術的な、何事か朝鮮の昔がしのばれる。棺に納まっている婦人のは、骸は既に風水に解けて容は止めなかったけれど、絹物の衣類調度と、胸の宝石貴金が昔のままに残っていた。
 夜の歓迎会は、お牧の茶屋というので開かれた。この眺望は恐ろしく大きかった。大同江を真っ直ぐに下流に見下ろして、既に陽《ひ》が落ちた薄暮のうちに対岸の平野を黙々と飾る灯と、牡丹台の崖にちらつく灯が相対して、ほんとうに幽遠を思わしめたのである。
 宴席に、六、七人の妓生が現われた。二十二、三歳から五、六歳になっているから、妓生学校を卒業してからもう七、八年は過ぎた人達であろう。甚だものなれている。
 真白、淡紅、薄紫、黄などいろいろの上着の下に、長い裳をつけてなよなよとしていた。いずれも五尺二寸以上の上背があって最も高いのは五尺三寸あるという。そして姿態がやわらかく、四肢がのびのびとしているから物腰に無理なところがない。婉美《えんび》というのはこういう女達を指すのではないかと思う。
 中でも崔明洙、韓晶玉というのが、美声の持主であった。内地の芸妓の唄う歌をなんでも唄った。この色と艶と弾力、それをこれほどまでに錬磨した声は、内地の芸妓にも少ないと思った。安来節《やすきぶし》と白頭山節には感服した。哀調を帯びたアリラン節に魅せられたのは勿論のことである。
 尹玉川と白蓮紅の二人は、若くて、そして美人であった。皮膚が練絹《ねりぎぬ》のように細かくやわらかであるから、白粉《おしろい》の乗りがいい。爽やかな眼を大きく張って、この二人も明るく唄った。
 韓晶玉は、絵筆を色紙の上に揮った。濃淡の墨痕に七賢を描き出したのだが、内地でいえば、いやしい芸妓にもひとしい稼業であるのに、よくもこんな技まで習ったものかなと、驚いたのである。
 妓生は芸妓とひとしいというけれど、少しも借金を背負っていないのだ。流行妓になると三、四万から十万円位貯蓄しているという。妓生学校へ入学するには、人物試験と身元調査が厳重に行なわれる。だから下層民の娘は入学できないのである。良家に育ち、厳重な校規の下に教育を受けて卒業すると、そのまま誰に抱えられる訳ではなく、女の一つの立派な職業として旗亭《きてい》の招きに応じ客に唄と舞を供する。勿論、酌もするのだ。
 お牧の茶屋の収穫は、妓生の美しさばかりではなかった。川魚料理である。カルユイ(小蟹)、ソガリ(鰍魚)、フナ、ヒガイ(鰉)、ドジョウなど、いずれも眼下に眺める大同江の水から漁《と》ったものだそうだ。
 鰍魚という魚は、いままで人の話や書物などで知っていたが、実物を見て、そして味わうのはきょうがはじめてである。この日、私らの目前に運ばれたのは、長さ一尺七、八寸、目方は六、七百匁もあったろうか、全体の姿がスズキによく似ている。殊に、下あごの突き出ているところはスズキにそっくりである。背びれがいかめしく、うろこが細やかである。それに塩を振って丸焼きにしてあった。肉は淡白で味わうと、一種の濃淡が舌に残った。スズキよりもおいしい。胆《きも》は皮ハギのそれに似てそれよりもおいしく、腹の卵粒も珍賞に値《あたい》したのであった。
 小ガニは、小豆ほどの大きさである。そんなに小さいながら親ガニであるそうだ。それに薄く衣《ころも》をつけ、空揚げにした味は酒席の前菜として杯の運びをまことによく助ける。私らは、ほんとうに賞喫したのである。フナとドジョウとヒガイは内地のものにくらべて、少しは劣ると思った。それは舌に淡い、いがら味の残匂をおくからであろう。
 まだこの外に、サンチー(山至魚)という珍味があるのであるけれども、これは大同江の上流の六、七十里のところに棲むのであって、まだ漁の季節に入っていないから、漁人が持って来ないのは残念である、とお牧の茶屋の中年の女将が語った。
 夜半、宿へ帰っておいしいそばを食った。半島でもこんなおいしいザルそばが食えるものかと思ったのである。
 十三日朝再び京城へ帰って、その夜の汽車で外金剛の山々を志して出発した。車掌がスチームの温度を無暗と高める。肌から汗が出て眠れない。寝台車の中で寝返りばかり打っていた。朝八時半に、外金剛駅へ着いた。
 駅から出ると、今まで見た朝鮮の風物とはことごとく変わっていた。今まで釜山から京城へ、京城から平壤へ、京城から外金剛の駅まで汽車の窓から見る風景は、禿山に近い赤土の地肌に、ちょろちょろと若い松が生えた甚だ痩せた感じの趣ばかりであったが、ここは赤松が緑の葉を濃く垂れてのびのびと茂っていた。さまざまの雑木も水と肥料を食べ足りたように、何のこだわりもなく、枝を押しひろげている。この間を清い水の渓流が流れている。青い淵に続いて、激しい瀬が白い泡を立てる。花崗岩の家ほどもある岩塊が、いくつともなく渓畔に転積していた。
 温井里の温泉で、朝飯を食った。温泉は、砂の中から湧いている。清い、あくまで清い。湯槽の底にある砂と玉石の数が一つ一つ数えられるくらいだ。
 名所は、行って見ると話に聞いたほどでもないのが普通であるが、金剛山だけは話以上に勝れた景観と風物を持っていると出発前に誰かが語った。まさにその通りである。これは、金剛山の偉大と繊細と広さとに接して、誰も適当な形容の言葉を発見し得なかったためであろうけれど、我らも一歩山へ足を踏み入れて呆然《ぼうぜん》たるばかりであった。
 途中、一里半ばかりの六花台までは自動車、それから一里ばかりの万相渓までは山駕籠《やまかご》であった。この駕籠は籐椅子を二本の長い竹に結び、二人の鮮人の舁子《かきて》が担ぐのだが、樽神輿《たるみこし》にでも乗った気持ちで甚だ快い。
 万相渓で駕籠を捨て、いよいよ万物相(岩山の群落の総称)への棧径《さんけい》へかかった。目指すところは天仙台と、天女の化粧壺である[#「化粧壺である」は底本では「化粧壼である」]。内地のどこかに胸突八丁という難路があるが、そんな道は愚かである。約一里の道が、ことごとく爪先上《つまさきのぼ》りだ。雪橋の下からくぐり出す渓水を汲んで渇を癒し、吐息をつきながら鉄の鎖を握ってよじのぼった。朝鮮烏が五葉松の梢に止まっている。
 安心呂から二、三百メートルのところであるが、天女の化粧壺へ[#「化粧壺へ」は底本では「化粧壼へ」]行く道は随分危険な場所が多い。胸を突くような岩の道に、鉄の鎖が張ってある。それをたぐりたぐり行くのだ。一足行くごとに眺めが広くなってくる。
 天女の化粧壺というのは[#「化粧壺というのは」は底本では「化粧壼というのは」]、三保の松原の羽衣の伝説と同じ話であるが、日本の伝説は海の羽衣であるけれど、朝鮮の伝説は山の羽衣である。一足誤れば、命のないほんとうにあぶない岩角をまわって化粧壺を[#「化粧壺を」は底本では「化粧壼を」]訪ね、それから天女が舞い下って羽衣を脱いだという天仙台へ登って行った。
 天仙台は、新万物相の中心をなしている。ここから眺めた景観は甚だ大きい。ただ大きいといったところで分かるまいが、ちょっと例をとって見ると、天仙台から一眸《いちぼう》の下に集まる万物相一帯の景色だけでも妙義山と御獄昇仙峡を五十や六十組合わせたくらいの大きさを持っている。それが、ことごとく花崗岩の風化した奇峰ばかりだ。ここらは、まだ春が浅いのでいろいろの雑木の枯林の下に、白い残雪が光っていた。東の方遠くに、山の裾が靄に溶け込んでいるところは、日本海であろうか。
 こうして一眸の下に、妙義と昇仙峡とが数十集まったくらいの素晴らしい景観が見えるけれどこれは金剛山のほんの一小部分にしか過ぎない。高い山にさえぎられた奥の方に渓谷と山容の複雑な内金剛の山々が、果てしもなく広く隠れている。また、海の方には日本海の波涛を白く砕いて、海金剛が奇観を集めているのだという。
 だから、妙義や耶馬渓をみただけの人には、この金剛全山の巨姿は到底想像もつくまい。この山々をゆっくり仔細にふみ分けるには、十四、五日間かかるであろうといわれている。
 午後、再び駕籠に乗って温井里の温泉宿へ向かって山を下りはじめた。駕籠の上から、路傍を見ると落葉の間に白い北韓スミレや可愛らしい紫スミレが咲いていた。
 外金剛の谿《たに》を飾る万相渓の水は、まことに清冽であった。この美しい水が、大きな岩にくだけ一枚岩をすべってゆき、そして蒼い淵となって凄寒の趣を堪えている情景を眺め入ったとき思ったのは、岩魚《いわな》や山女魚《やまめ》が数多く棲んでいるであろう、ということである。だから、朝鮮人の駕籠かきや茶亭の老爺に様子をたずねてみたのであるけれど、魚類というものは、何もいないという返事であった。
 これで、用意していった竿も、餌も何の役にも立たなくなった。温井里付近の下流には、アブラ鮠《はや》に似た小さい魚ならばいるとの話であったが、アブラ鮠は釣ってみる気になれなかったのである。そして、渓のみぎわに転積している小さい玉石をころがしてその裏を見た。けれど、渓流魚の餌となる川虫の姿が一つも見られなかったのである。なるほど、これでは魚はこの川に棲めないと思った。
 夕方、長箭や温井里や元山津の愛棋家が三、四十人集まって、我々の歓迎会を開いてくれた。
 夜汽車に乗って京城へ帰った。途中、安辺というところが日本海の沿岸を走る線と、京津線との乗換場所である。夜半、駅のホームに立って冴えた空を眺めると、頭上高く北斗七星がきらめいていた。北極星は、東京付近で見るのよりも地平高きところにある。
 京城へ帰って一日休養し、十六日は朝から碧蹄館の古戦場を訪れた。山と山との間に水田が開けて、畔にポプラの樹がそびえ、山裾に落葉松が金魚藻のような若葉をつけていた。そこが、三百四十年前の古戦場であった。小早川隆景の僅かな軍勢が、明の四、五万の大軍を殲滅した所である。いま見るこの水田が、戦争で血に溢れたそうだ。日本刀で随分斬りまくったものと見える。太閤の朝鮮役は前後七年かかった。このたびの支那事変はまだ僅かに三年。思いくらべて感慨無量であった。
 十六日夜半、東京へ向けて京城をたった。翌朝釜山で鯛釣りを試みるつもりだったが、海が荒れて、この志も達せられなかったのである。[#地付き](一四・四・一七)



底本:「完本 たぬき汁」つり人ノベルズ、つり人社
   1993(平成5)年2月10日第1刷発行
底本の親本:「随筆たぬき汁」白鴎社
   1953(昭和28)年10月発行
※<>で示された編集部注は除きました。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2007年4月2日作成
青空文庫作成ファイル:
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