がら鉄の鎖を握ってよじのぼった。朝鮮烏が五葉松の梢に止まっている。
安心呂から二、三百メートルのところであるが、天女の化粧壺へ[#「化粧壺へ」は底本では「化粧壼へ」]行く道は随分危険な場所が多い。胸を突くような岩の道に、鉄の鎖が張ってある。それをたぐりたぐり行くのだ。一足行くごとに眺めが広くなってくる。
天女の化粧壺というのは[#「化粧壺というのは」は底本では「化粧壼というのは」]、三保の松原の羽衣の伝説と同じ話であるが、日本の伝説は海の羽衣であるけれど、朝鮮の伝説は山の羽衣である。一足誤れば、命のないほんとうにあぶない岩角をまわって化粧壺を[#「化粧壺を」は底本では「化粧壼を」]訪ね、それから天女が舞い下って羽衣を脱いだという天仙台へ登って行った。
天仙台は、新万物相の中心をなしている。ここから眺めた景観は甚だ大きい。ただ大きいといったところで分かるまいが、ちょっと例をとって見ると、天仙台から一眸《いちぼう》の下に集まる万物相一帯の景色だけでも妙義山と御獄昇仙峡を五十や六十組合わせたくらいの大きさを持っている。それが、ことごとく花崗岩の風化した奇峰ばかりだ。ここらは、まだ春が浅いのでいろいろの雑木の枯林の下に、白い残雪が光っていた。東の方遠くに、山の裾が靄に溶け込んでいるところは、日本海であろうか。
こうして一眸の下に、妙義と昇仙峡とが数十集まったくらいの素晴らしい景観が見えるけれどこれは金剛山のほんの一小部分にしか過ぎない。高い山にさえぎられた奥の方に渓谷と山容の複雑な内金剛の山々が、果てしもなく広く隠れている。また、海の方には日本海の波涛を白く砕いて、海金剛が奇観を集めているのだという。
だから、妙義や耶馬渓をみただけの人には、この金剛全山の巨姿は到底想像もつくまい。この山々をゆっくり仔細にふみ分けるには、十四、五日間かかるであろうといわれている。
午後、再び駕籠に乗って温井里の温泉宿へ向かって山を下りはじめた。駕籠の上から、路傍を見ると落葉の間に白い北韓スミレや可愛らしい紫スミレが咲いていた。
外金剛の谿《たに》を飾る万相渓の水は、まことに清冽であった。この美しい水が、大きな岩にくだけ一枚岩をすべってゆき、そして蒼い淵となって凄寒の趣を堪えている情景を眺め入ったとき思ったのは、岩魚《いわな》や山女魚《やまめ》が数多く棲んでいるであろう、というこ
前へ
次へ
全10ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
佐藤 垢石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング