異りて味も薫もになくにぞ、世にもて賞するある。その頃は馬にておくりたるを、いつよりか舟にてあまた積もてくだせる事にはなれる。その国にさへ一二樽残してもてかへり、富士見となん賞しけるとぞ(下略)。
蜀山人の就牘《しゅうとく》には、
当地は池田伊丹近くて、酒の性猛烈に候。乍去宿酔なし、地酒は調合ものにてあしく候。此間江戸より酒一樽船廻しにて富士を二度見候ゆへ二望嶽と名付置申候。本名は白雪と申候。至って和らかにて宜敷聯句馬生に対酌――などとある。これは昔、酒樽を灘から船で積み出し、遠州灘や相模灘で富士の姿をながめながら江戸へ着き、その積んで行った樽のうち二、三本をさらに灘へ積み返し、上方の酒仙たちの愛用に供したから、富士見酒と言ったものであろう。
柳多留四十二篇に、
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男山舟で見逢のさくや姫
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という川柳があるが、これは長唄の春昔由縁英《はるはむかしゆかりのはなぶさ》のうちの白酒売りの文句に『お腰の物は船宿の戸棚の内に霧酒、笹の一夜を呉竹の、くねには癖の男山』とある銘酒。この男山と富士の女神かぐや姫が舟で見逢いをする、としゃれて詠んだのかも知れない。
だが、いま東京では男山などという灘の酒は見当たらない。それは、とにかくとして長い船路を幾日かけて江戸へきて、さらに上方へ持ち返された酒であるから、充分に揉《も》みに揉まれ、酒の醇和されていたことだろう。そんなことを思いながら、手酌でちびりちびりやっていると、帆に風を孕《はら》んだ船が酒樽を積んで波の上を上って行くさまが、ひとりでに眼に浮かぶ。
濁酒と言えば、日本派の全盛であった頃、
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新酒店財布鳴らして入りにけり
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というような俳句があったと記憶しているが、このごろでは世の中があまり文化的になってしまって、この句の趣を味わえる風景に接しないのである。
このほど私は、故郷の上州の榛名山の麓の村へ行ったところ、私の子供のときの収穫時の風景とは、まるで変わっていた。石油発動機が庭の真ん中で凄い響きを立てて唸り、稲扱《いねこぎ》万牙も唐箕《とうみ》も摺臼《すりうす》も眼がまわるような早さで回転していた。
浅間山の方から吹いてくる霜月の寒い風が、庭のほこりを小さくつむじに巻いているなかに、祖母や母が手拭を姐さんかぶりにかぶって、稲を一振りずつ振りとっては、先祖伝来の稲扱万牙に打ちつけていた姿は、いまはもう遠い昔の思い出だ。
父や作番頭は唐箕や、摺臼に忙しい。そこへ祖父が、燗鍋に濁酒を入れてきて、
『みんな、こっちへきな。一杯やるべえよう』
と言って呼んでいた俤がなつかしい。土塀のそばに、枯れた桑の根っ子が燃えていた。私ら子供は、その火で唐芋の親を焼いて、ほかほかと皮を[#「皮を」は底本では「川を」]剥《む》いて食べていた。
村の役場も、洋館建てになった。洋食屋ができて、トンカツを売っている。碓氷峠の方へ通う路は、このごろ県道になってバスが砂塵をあげて走っている。
石油発動機と、濁酒とはどうしても結びつけて考えられない。『濁酒』と書いた紺色の旗が寒風に翻っている時の居酒屋が、店を閉じてからもう幾年になるだろう。[#地付き](一四・一二・三)
底本:「完本 たぬき汁」つり人ノベルズ、つり人社
1993(平成5)年2月10日第1刷発行
底本の親本:「随筆たぬき汁」白鴎社
1953(昭和28)年10月発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2007年4月2日作成
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