濁酒を恋う
佐藤垢石

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)大袈裟《おおげさ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)毎日|炉傍《ろばた》

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(例)[#ここから2字下げ]
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 遠からず酒の小売値段は、いままでの倍額となるらしい。つまり、一升三円であったものが六円ということになるのだろう。
 だから、晩酌を二合ずつやった者は、一合にへらさなければ勘定が合わなくなる。私など、それで辛抱するよりほかに致し方がないと観念している。
 ところが、私の友人にそんな簡単にあきらめられるものではない、と言うのがいる。自分は酒を飲むのが楽しみで毎日仕事をしているようなものだ。だのに、その酒を次第々々に減らさなければならないとあっては、仕事がやれなくなる。仕事がやれなければ、結局餓死するばかりだ。しかし、相場が自然に高くなって行くのに、どこへ苦情の持って行きようもない、と言って毎日しおれているのだ。
 そこで友人は、この正月を控えて、四斗樽一本を工面した。まず、大袈裟《おおげさ》に言うと酒の買い占めだ。小売値段が急騰しないうちに、という用心である。
 そして、この一本飲み終えたのちは、もうどんなに値段が高くなってもかまわない。人生を諦めると大きく構えて落ちつきはじめた。
 四斗樽を買い込んだ翌日、――君にもあの音を聞かせてやりたいね、実にたまらんよ。僕のところのお勝手は、手ぜまなものだから、四斗樽を玄関へ据えつけた。昨夜おそく仕事から帰ってきて、僕が茶の間の餉台《ちゃぶだい》の前へ胡座《あぐら》をかいていると、女房が片口を持って玄関の方へ出て行った。すると、ややあって、ゴクという音がするのだ。それから、二息三息してからゴクという響きがする。女房が、樽の口を引いたらしいのだ。折りから夜半の一時近い頃だから、近所となりは深閑としている。ゴク、という音が玄関の三和土《たたき》の土間に反響して、何とも快い律調を耳に伝えるじゃないか。この音を聞いただけで、もう僕は往生を遂げても、かまわんと思ったよ。それから、いいあんばいに燗をつけて、一献咽へ奉ると、その落ちのいいこと。どうだい、君も一本四斗樽と買い込んでは。
 冗談じゃない、俺にはそんな銭はないよ。それは気の毒だ。では夜半すぎに毎晩僕のところの玄関の外へきて、あの音だけを聞いて楽しむことにしてはどうだ。こんな訳で爾来毎日、友人はまことにいい気持ちになっているのである。いよいよ清酒が飲めないことになれば、私は濁酒《どぶろく》でやろうかと考えている。濁酒の味も捨てたものではない。濁酒を燗鍋で温めて飲むのも風雅なものだ。私の子供の時分には故郷の村の人々は自家用の醪《にごりざけ》を醸造しては愛用していた。
 当時、酒の税制がどんな風になっていたか知らないが、私のとなりの家に、飲兵衛のお爺さんがいて、毎日|炉傍《ろばた》で濁酒を、榾火《ほたび》で温めては飲んでいたのをいまも記憶している。納戸《なんど》部屋の隅に伊丹樽を隠しておいて、そのなかへ醪を造り、その上へ茣蓙《ござ》の蓋をして置く。それを、一日に何回となく杓子《しゃくし》で酌み出しては鍋にいれてくるのだ。
 ときどき、村の駐在巡査がやってきて、大きな炉のそばの框《かまち》に腰をかけ、洋刀をつけたまま五郎八茶碗で、濁酒の接待にあずかり、黒い髭へ白の醪の糟をたらして、陶然としていたが、そのころは濁酒を隠し造りしても大してやかましくなかった時代とみえる。私もそのお爺さんに小僧のめのめと言われて、飲みなれたために、いまのような飲兵衛になってしまったものと思う。
 ところが近年では次第々々に口が贅沢になって、濁酒では満足ができない。清酒も、品好みをするようになった。関西の方からくるいろいろの清酒を味わうが、もっとおいしいのはないものかと考えるようになったのである。けれど、現在世の中にあるおいしい酒というのはすべて味わい尽くしたから、この頃では昔上方にあったという『富士見酒』の味を想像して、舌に唾液をからませている。『富士見酒』というのは、糟丘亭が書いた百万塔のひともと草に出ている。百万塔は百家説林のように、各家の随筆を収録したもので文化三年に編粋され、ひともと草はそのうちの一篇であるが、糟丘亭は上条八太郎の筆名だと聞く。
 酒の初まれるや、久方のあめつちにも、その名はいみじき物を、ことごとしくにくめり云ふもあれど、おのづから捨てがたき折ともよろづに興をそふるともをかしく、罪ゆるさるる物とも嬉しとも、いきいきしともいへり。この物つくれる事のひろこりゆけば、いづこにすめるも濁れるもあれど、過し慶長四年とや、伊丹なる鴻池の醸を下しそめけるより、この大江戸にわたれるは、ことところ
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