増上寺物語
佐藤垢石
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)昧暗《まいあん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)松杉檜|縦《もみ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)斗※[#「木+共」、第3水準1−85−65]
−−
五千両の[#「五千両の」は底本では「五十両の」]無心
慶応二年師走のある寒い昧暗《まいあん》、芝増上寺の庫裏《くり》を二人の若い武士が襲った。二人とも、麻の草鞋《わらじ》に野袴、革の襷《たすき》を十字にかけた肉瘤盛り上がった前膊《まえかた》が露《あらわ》である。笠もない、覆面もしない。
経机《きょうき》の上へ悠然と腰をおろして、前の畳へ二本の抜き身を突きさした、それに対して、老いた役者が白い綿入れに巻き帯して平伏している。役者というのは、いまでいう寺の執事長である。一人は土方晋、一人は万理小路某と臆するところもなく役者に名を告げた。そして土方が厳《おごそ》かな言葉で、
『増上寺にも、いまの時世が分かっていよう。国のためだ――迷惑であろうが、直ぐこの場で五千両だけ用達て頼む』
と、迫った。役者は、
『はっ』
こう答えたが、しばし畳から面が離れなかった。役者は、ほんとうに当惑したのである。日ごろ増上寺の懐中を預かっているこの役者が、ここでおののく胸に胸算用をしてみると、あちこち掻き集めたところで手許には金二千両しかない。武士の要求に、三千両足りないのだ。五千両位たやすく並べることと見当をつけてきたのであろうから、二千両しか手許にない、と正直に答えれば、この畳にさしてある白刃がどう物をいうか、分かったものではない。けれど、無いものは無いのだ。何と致し方もない。役者は肚をきめた。
『お言葉たしかに承引致しました。しかし、増上寺は永年手許不如意にて、既刻の話にては、ご無心に三千両足りません。とは言いましても、半刻ほどお待ちくだされば心当たりの筋から用達て参り、ご満足をはかりたい』
土方と、万理小路は眼を見合わせた。土方が万理小路の耳に囁くと、万理小路は役者の背中の上から太い声で、
『分かった。うろたえて騒ぎまわれば寺のためにならぬ。半刻の猶予は余儀なく思う。待つ、早く用達て参れ』
と、圧するように言った。
役者が庫裡の大戸を開けて出ようとすると、そこに見張っていた六、七人の武士が忽として取りまいた。役者は取り巻かれたまま、七代将軍の霊廟有章院別当瑞蓮寺へ行って、まだ明け方の夢がさめない庫裡を叩いた。
即座に三千両は都合になった。増上寺の庫裡へ戻って土方と万理小路の脚下へ、都合五千両が並べられた。土方が合図をすると、大戸の方からも、厨房の方からも十四、五人の武士が駆け込んできて、五千両の金を何処ともなく運び去ったのである。
土方晋は、後の土方伯であった。
翌年の七月、こんどは白昼、土方らは増上寺へ押し込んできた。
『宇都宮戦営の軍費にして、尊王方の勘定方に少々都合がある。たびたびで気の毒に思うが、この度は金三千両だけ用達てくれ』
役者は前の時の僧であった。ところが、その時の増上寺には一文の蓄えもなかったのである。役者は、また白刃の前に怯《おび》えた。震える声で役者はおそるおそる寺の財政の現状について述懐し、何としても即刻融通をつけるという訳には行かぬ有りさまを詳さに語り、数日の猶予を乞うたのである。たってとの仰せならば、この場へ古物買いを連れてきて、寺の宝物など売り払い、お志の幾分なりとご用達てるより他に途がないと、平伏した。
『さようとあれば、詮方ない。きょうはいらぬ』
こう言って、土方はあっさり立ち去った。
淡快な土方晋
その日は、それで済んだけれども、増上寺では後難を恐れた。
いまでも行ってみれば、眼のあたり分かる通り、幕末から維新当時にかけて増上寺の境内や数ある徳川霊廟の境内は、匡賊に類した武士や贋武士のために、惨々《さんざん》な掠奪《りゃくだつ》を蒙っている。諸侯が[#「諸侯が」は底本では「諸候が」]寄進した青銅の灯篭を足から持って行ったのもあり、宝珠を片っ端から盗み去ったのもある。甚だしいのになると、銅で葺いた内塀の屋根を、長々と剥ぎ去ったのさえある。灯篭を運び去ったのは幕府の大筒を鋳《い》る原料にするのだと豪語したと言うし、銅の屋根を剥ぎ去ったのは、尊王方の軍費に資するのだ、と台詞《せりふ》を残して逃げたと言うが、これを後になって調べてみると、それは悉く幕府に捧げたのでもなく、尊王に資したものでなかった。それは当時薄祿に食うに困ったご家人や浪人が、騒乱のどさくさ紛れに[#「どさくさ紛れに」は底本では「どさくさ粉れに」]寺内へ忍び込んで手近なものを担ぎ出し、古物屋へ売り飛ばしたのや、小盗の類が贋武士となってやってきたものであると分かった。
しかし、当時の、物ごとに震えてばかりいた増上寺には、その真相は分からなかった。武士と名のつくものには、腫れものに触るようにして為すがままにした。
後難を恐れた役僧達は、相談の末数日後、また別当瑞蓮寺から千五百両借りてきた。そして、これを前日の役者が携えて、土方らの宿所を訪れた。
『本日、千五百両だけ都合でき申した。きょうのところはこれで耐えて頂きたい。残る千五百両は、寺の宝物を払っての上持参する考えでご座るから、いましばしのところお待ちを願いたい』
と、申し入れた。ところが、土方らは増上寺の使者に、
『心にかけて忝《かたじ》けない。だが、軍費は当方において都合ができた。本日のところは、持ち帰って貰おう』
と、挨拶した。この辺、まことにさばさばとしていて面白い。
筆者はこのほど、瑞蓮寺に住職絲山氏を尋ねて霊廟物語につきいろいろと話を承った序《ついで》に、土方らが押し入った当時増上寺が瑞蓮寺から借りた三千両と、千五百両の借用証書を見せて貰ったのであるが、幕府時代の別当の金持ちであったのに驚いたのである。それにつけても、増上寺は貧乏したものであった。それというのは、十代、十一代頃から幕府の財政が衰えて、増上寺に対する手当てが充分に行なわれなかったのに、一方霊廟の別当、つまり墓守りの方へは徳川家から直々に祿米手当があった上に、世に知られない余祿が数あったのであろう。
増上寺の寺境六百余町歩、それが幕府全盛の頃には、大江戸に栄華を極めたに違いない。潔麗絢爛《けつれいじゅんらん》、江戸時代建築技巧の精華を集めた徳川世々の霊廟を中心に、幾千棟の大小伽藍を掩う松杉檜|樅《もみ》の老木が鬱蒼《うっそう》と、東は愛宕町から西は赤羽橋まで昔のままに生い茂っていたならば、東京の一偉観であったであろうと思う。それが今では増上寺の御廟《おたまや》と言っても殆ど知らぬ人が多い。東京市民中で、この江戸芸術の粋を飾った建築美を賞して、地下に眠る旧職人と言われた人々の卓越した腕と心に耽酔した人が幾人あろうか。
日光と芝と
それでも、一度増上寺のあの大門をくぐってみると、その豪華なこと、上野の寛永寺とそれを取りまく公園の比ではない。
先年日本へ観光にきた仏蘭西の一画家が、東京の都会美には何処《どこ》となく植民地の匂いがある。ところが、芝公園に遊んではじめて東京の姿をみた。と評したことがあった。それは公園の中心に、徳川将軍家歴代の宝廟があったためであるのは勿論である。
日本人であっても日光の霊廟を知って、この霊廟を知らぬ人が普通である。日光には、山水の姿の人を惹きつける景物があるが、芝にはそれがない。まことに残念である。もし、芝に日光だけの天然を持たせたならば、見る人の耽美の情を揺するこの芸術は、日光以上の声価をもって世界に紹介されたであったろうと思う。
江戸時代の権勢と金力と、審美眼とを後世に残したこの増上寺を、徳川家の菩提所《ぼだいしょ》[#ルビの「ぼだいしょ」は底本では「ぼたいしょ」]として定めたのは家康であった。家康が千代田城を政権の府とした頃、半蔵門の近くに観智国師という高僧が庵《いおり》を結んでいた。家康はその徳に帰依《きえ》して、国師に増上寺の造営を嘱したのである。ここを三縁山と唱えて、徳川家累代の霊を祀る地とした。当時の増上寺は境内十八万坪、数十の大建築物棟を並べ、いくつもの学寮を創設し、また関東地方一帯の戸籍の総録所も置いた。これは、いまの戸籍役場の元締めで、つまり司法省の事務まで取り扱わせたのであった。
そして、総本山智恩院に対して増上寺を浄土宗の本山と称え、末寺の数も千を越え、徳川家の菩提所というのであるから、寺としての豪勢、関東に並ぶものはなかった。
上野の、東叡山寛永寺は、天海上人の開基である。天海上人は観智国師の法友で、共に武蔵国の人であった。国師の推薦に与《あずか》って家康は上人を知り、千代田城の鬼門に当たる上野山に寛永寺を建立させ、これを鬼門除けの祈祷所とした。であるから、最初は寛永寺を将軍家の霊所とする考えはなかったのである。
増上寺の現在の本堂は、明治四十三年の建築になったものである。幕府時代からの本堂は、明治六年政府の方針より増上寺に神仏を共に祀った時、神仏|混淆《こんこう》を忌《い》む神官が放火したので烏有《うゆう》に帰し、その後再建したが、これも明治三十年、乞食の焚火によって炎上した。
境内にある将軍の霊廟は二代秀忠、同裏方崇源院[#「崇源院」は底本では「宗源院」]昌譽和興仁清大禅光尼、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂などであって上野寛永寺境内にある霊廟には四代家綱、五代綱吉、八代吉宗、十代家治、十五代慶喜などが祀ってあるが、廟の建築などは、上野は遠く芝に及ばない。日光は家康と三代家光とだけである。また家康の廟は、江戸城紅葉山にもあったが、これは明治六年の火災で焼失してしまった。
豊麗な秀忠廟
家康薨去の時は、最初駿河の久能山に葬り、その後間もなく日光に移したのであったが、いまに残る華麗な建築物は、寛永十三年に至って家光が、初期の建築物を改造したのであった。二代秀忠は増上寺境内へ祀って台徳院と称した。次に三代家光は日光と上野寛永寺に祀ったが、寛永寺の廟は焼失し、残るは日光のものばかりとなったのである。
四代家綱、五代綱吉の廟は上野へ持って行き、次の五代と七代の廟は芝に造営した。一代から七代までは、芝に置こうが上野に置こうが一代ひと構えとして独立の霊廟を建造経営する慣わしとなっていた。ところが、八代[#「八代」は底本では「八台」]吉宗からこの慣わしを破ってしまったのである。つまり、次から薨去した将軍は、先代の廟に合祀して単に墓標であるところの宝塔ばかりを建てるようになったのであった。
この原因には、いろいろの事情が伴ったのであろうが、主なる原因は当時幕府当局が新たに方針を定めた財政上の大緊縮政策によったためであろう。吉宗は、生前遺命して自分の霊を上野の五代廟に合祀させたのであった。その後の各将軍の霊は、芝または上野の廟に合祀され、決して単独の廟を建立せぬようになったのである。そして合祀の墓所には一基ずつの銅製あるいは石造の宝塔を建て、宝塔の前に小さな拝殿を設けたのである。だが、その小拝殿も芝の方には残っているが、上野には現存していない。
徳川累代の霊廟のうち、建築芸術として価値あるものは一代から七代までであって、八代以後は規模が甚だ小さいのである。けれど一番古いところの久能山の家康廟と、改造前の日光廟とはまだ徳川家が興隆の途中にあってなかなか軍事に忙しく、従って財政的基礎も確立せぬ時代に建築したのであるから充分な工費を支出し得なかった。そんな関係で、一体に規模も小さく形容も簡素であったのは無理ならぬ話であった。
日光廟の改造を行なったのは、三代家光であることは既に書いた。けれど、この改造は要するに二代廟の結構を模したに過ぎないのである。そして、余りに増上寺の二代廟へ金をかけ
次へ
全3ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
佐藤 垢石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング