過ぎてしまったので、日光へは思うがままに工費を支出し得なかったそうである。それほど、二代秀忠廟は豪華壮麗を極めている。
そこで、二代将軍の台徳院廟が建造された頃、つまり三代家光が将軍になってからは徳川家の覇業完成し、各般の制度も整い、財政も豊かとなったから、思うままに工費を支出して造営に力を注ぐことができた。それにまた技術方面から見ると、前時代つまり桃山時代の華麗豪艶な建築工事に携わった有名な建築家、画家、彫刻家、漆工、指物師など幾多の芸術家がなお揃って健在であったから、当時一流の腕を持っていた人々を集めるのも容易であった。台徳院造営時代は、かように好条件が備わっていたから、多くの霊廟のうちに国宝として特に秀でた建築ができあがったのであった。『徳川実記』、『本光国師』、『東武実録』などによると、二代秀忠の歿したのは寛永九年正月で、同月二十七日霊廟の工事を起こし、同年七月には新造の霊屋で供養を行なっている。その年のうちに三代将軍は、工事奉行の土井利勝に工事速成の賞として、来光包の脇差《わきざし》を与えている。続いて大工鈴木近江、同木原杢などに賞を行なっている。
これを見ると、僅か半歳の間に宏大にして精緻な美術建築ができあがったのであった。
しかし、霊屋の建築はとにかくとして、屋内を飾る美術品、彫刻、絵画、漆工、磁工などが、僅かに半歳の間に完成したとは思われない。左甚五郎が刻んだという芸術品だけでもその数は夥《おびただ》しいのである。如何《いか》に卓越した腕を持っていたにしたところが、短い時間にあれだけの美術品が新しく世に出たことは、我々|素人《しろうと》としてはほんとうに考えられないところである。
麻布の十番
それはとにかくとして、僅かな期間にあれだけの工事を仕あげたのであるから、随分多くの人を使い、また沢山の金を費やしたことが想像できる。
いま麻布に十番という地名がある。このところには、二代将軍霊廟造営に際して工事費支払場所を置いた。一番から十番までの勘定方がいたので、この名が残っているのである。技術家や、従業の人々が夕方になるとそこで金を受け取り、近所の飲食店や商店で散財したのであるから、当時麻布一帯は素晴らしく繁華であったであろう。
また徳川初期の清妙芳麗な工芸の神技を発揮しているものに、台徳院本殿内に安置した堂宇《どうう》と、奥院の宝
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