食べもの
佐藤垢石
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)陽《ひ》
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私は、この三月七日に、故郷の村へ移り住んだ。田舎へ移り住んだからといって、余分に米が買えるわけではなし、やたらに野菜が到来するわけではない。
近い親戚の人々や、家内の者と相談し、麦は今年の秋から、稲は来年の夏から、蒔いたり植えたりすることにして、まず手はじめに屋敷の一隅と屋敷に続く畑へ野菜を作ることにした。つまり、帰農のまねごとというのであろう。
しかしながら、野菜といっても愚かにならぬ。人間は、野菜なくして一日も生きていけないのだ。魚獣の肉はさることながら、この一両年、青物が甚だ好物になった。殊に家族の者共は菜っ葉大根を愛好し、香の物といえば、舌鼓打って目もないほどだ。
私の家も、先祖代々百姓である。私の代になってから、故郷を離れ文筆などというよからぬ業に親しんで、諸国巡歴に迷い出たが、中学時代までは鍬も握り、鎌も砥いだものである。だから、全く耕土を持たぬわけではなかった。
上手ではないけれど、うねも切り、種ものも指の間から、ひねりだせる。
第一着に、屋敷の一隅へ鍬を入れたのが、三月中旬である。それから五月中旬までに、蒔いたり植えたりしたものに、時なし大根、美濃わせ大根、甘藍、里芋、夏葱、春蒔白菜、春菊、胡瓜、唐茄子、西瓜、亀戸大根、山東菜、十二種類、なんと賑やかではないか。僅か十八坪か二十坪の庭が、野菜の百貨店となった。
屋敷続きの畑には第一に馬鈴薯を植えた。それから茄子、トマト、蔓なし隠元、岩槻根深、小松菜、唐黍など。
そしてこの、園芸の師匠は本家の邦雄さんと呼ぶ農学校出の青年である。恐らく、この夏から秋にかけては、素晴らしい果菜が、山のように食膳を賑やかすことと思う。
楽しいものだ。おかげさまで、朝は四時に離床して、畑の土に覗き入り、蒔いた種のご機嫌を伺う。初夏は、朝が早い。私が、飽かず胡瓜の貝割葉に興を催していると、四時半には野州の山の端から、錦糸にまがう陽《ひ》の光が散乱する。光景を受けた喜びに、物の葉が微風に震う。
夜七時が、夕めし。食べ終わると枯木が倒るるが如く、畳の上で大いびき。
合計百二、三十坪の野菜畑に過ぎないが、下肥汲みまでやるのであるから、なれぬからだには相当の労働だ。快く疲労すること、まことに健康そのものだ。
さて、種を蒔き、苗を植えたからといって二十日や一ヵ月で、収穫があるというものではない。しからば、畑から物がとれるまでの間、一体なにを食っているのかという問題になる。日常、配給を受けるものは米、味噌、醤油だけ。そのほか、副食物とか魚類、野菜に類した品はこの農村には全く配給がないと称してよろしいのである。
三月上旬に転住してきて以来、ただ僅かに一回、一人当たり生鰊が半身とお茶の葉が少量だけ。ほかの品は、まるでお顔を拝さぬ。
だが、いまは戦局重大な折柄である。そんな次第でも、われら家族になんの不平も、愚痴もない。政府がいうところの、足りないところは工夫《くふう》塩梅《あんばい》して腹を満たせの妙案を遵奉して、その日に処している始末だ。
家庭の女房たるもの、ここが大いに腕の揮いどころだ。女の腕が、陽《ひ》の目を見たというものであろう。
されど、私の家庭だけは、心配ご無用である。親が、この上新田の農村に私を生んでくれただけに、先祖の顔もあり、村人の温情もあり、朝な夕な、やれほうれん草はどうか、葱だ、にんじんだ、牛蒡だ、といった風に、人々が私の勝手許へ提げ込んできてくれる。殊に、馬鈴薯や里芋などの到来したときの嬉しさ、ありがたさ。
たまには麦粉、乾麺、白米、大豆など寄贈に接することもある。これで、食いものが足りないの、腹が減って堪らないと口外しては、甚だ相すまない。
これでどうやら、六月末頃から収穫に入る馬鈴薯の鮮醤に対面するまで、腹を継いでゆける次第であるが、しかし世間の人がすべて、私の家庭のように幸福に暮らしているとは思われないのである。
工夫塩梅して腹を満たせ、という言葉は、まことによき思いつきである。私のように、脳のうとい者には、着想不可能であった。昔から、無い袖は振れないとか、いかに巧みな手品師でも種がなくてはどうにもならぬ。と、いう諺があるけれど、戦争となってみれば、無い袖も振らねばならないし、種がなくても、生活を続けねばならぬ。不平、不満はもってのほかじゃ。
果たして然らば、どんな身振り手真似で、無い袖をひらひらさせるかという難問に逢着するのであるが、人民の悉くが母乳を欲するように心から憧憬《あこがれ》ているのは、人間味豊かな為政者の思いやりである。末端官吏の反対である。また指導者と呼ばれる人とか、統制事業に従う半官半商の人達の、思い上がりを棄てて貰う
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