と家の中へ入って行った。
都会のおかみさんは、にこにこした。
農家の親爺さんが、家の中の土間から持ち出したのは、一括りの野菜である。
「これだけ、やるべえよ」
おかみさんは、満悦である。
「すみませんね、お手数かけて――それでお代はいくら差しあげたら、よろしいのでしょう」
「なあに、これんばかりの品だから、いくらでもかまわねえよ」
「でもね、おっしゃってくださいよ」
「おれにや、値は分からねえだよ。まあいいから持ってくさ」
実際問題として『いくらでもかまわねえ』というのはまことに相手にしにくい。いくらいくらと言って貰えば、高かろうが安かろうが[#「高かろうが安かろうが」は底本では「高からうが安からうが」]、その通り支払うのであるが、この返答には当惑する。まるで見当がつかない。しかも『いくらでもかまわねえよ』といった親爺さんの顔には、それとはまるで反対の表情が、ちらちらしているのだ。
寸時の間、沈黙が続いたがおかみさんは横を向いて蟇口のなかから十円紙幣一枚だして、
「少しですみませんが、これ取って置いてください」
「これじゃ、お剰銭《つりせん》がねえがの。いまちょうと細けえのがねえんで――」
「お剰銭なんぞ、いいんですよ」
「それじゃ済まねえの」
このときはじめて、農家の親爺さんの頬と小鼻の脇に、笑いの表情が動いたのである。「それじゃ、お剰銭がねえがの」という手に対しては、都会のおかみさんは馴れたものである。万事、心得たものだ。
「おじさん、またきますから、こん度おじゃがなんか、売って頂戴ね」
「あいよ。この相場なら何でもやるよ。おれのうちになければ、近所から都合してきてもやるべえよ」
野菜買いだし問答は、こんな調子のものであろう。
先日、私はこの夏食べねばならぬ時無し大根の種を蒔き終わり、縁に腰かけて煙管で一服やっていると、三十歳前後の見知らぬ男が庭先づたいにやってきた。そしてだしぬけに、しかも、なにか憚るように、
「おじさん、なにかありませんか」
と、いうのである。私は、この青年見当違いをしてやってきたなと思った。
「なにかありませんかって、どんなもの」
「米でも、じゃがいもでも結構なんですがねえ、少し――」
「なんだ君は買いだしか――だが僕のところには生憎なにもないんだよ」
「うそ言わないでさ」
「うそだもんか、僕の方でほしい位だ」
「じょうだ
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