行けば先方で逃げよう。
 筆者も昨年、この川の緑に生い茂る芒《すすき》原の中で大熊に出会い、命からがら一匡邑近くまで飛び帰ったことがあった。
 高山には、いつまでも冬が残っている。六里ヶ原の原頭に立って、越後の方の遠い深い山から吹いてくる北の風に棚引いて、浅間の噴煙が武蔵国の方へ流れ行く雄大な展望に接し得るのは、山の釣り人が持つ特権だ。

       六

 東京に近い川で山女魚の棲んでいるのは、奥多摩の本流とその支流日原川と、秋川とである。だが、東京に近いだけに交通の便がよく、約二、三年漁期に入ると一竿を肩にした人々が、我れも我れもと押しかけるので、既に早春のうちに漁《と》り尽くしてしまう。とりわけ、今春は渓流魚釣りの熱が都会に普及してきたので、日原川の山女魚は種も尽きよう、という有様となった。
 秋川も、一両年後に釣り尽くされるであろう。禁漁中の二月から、釣り人が入り込んで、まだ産卵後の、体力の回復しない黒く錆《さ》びた肌の山女魚を五十、百と毎日釣ってきた人もある。何とかこのさい取り締まりを厳重にしないと、多摩川筋の山女魚は絶滅してしまうかも知れない。近年は大量的に虹鱒と川鱒の放流を行なっている。だが、日本独特の山女魚が多摩川から姿を消していこうとするのは、まことに悲しむべき事実である。
 甲州へ入ると、山女魚と岩魚が多い。|甲武信ヶ岳《こぶしがたけ》の密林から出てくる笛吹川、甲斐駒の肩に源を持つ釜無川、金峰山の本谷川、御岳昇仙峡の荒川など、何れも釣り人憧憬の渓である。ところが甲州と信州の人々は、渓に毒を流して魚をとる悪い癖を持っている。先年富士見に別荘を持っている小川平吉氏が、釜無川に毒を投げ込み山女魚と岩魚を四斗樽に二、三杯もとったという噂があったが、もしほんとうであったら、もってのほかだ。
 笛吹川と釜無川は鰍《かじか》沢で合して富士川となり、俄然《がぜん》大河の相を備えて岩に砕け、滔々《とうとう》の響きを天に鳴らして東海道岩淵まで奔下し太平洋へ注いでいるが、その途中の山から出てくる幾筋もの支流では、関西系の美しい山女魚がいくらでも釣れる。
 早川、常葉川、波木井川、福士川、佐野川、稲子川、芝川など、何れの川も釣り場として好適である。殊に白根三山の雄、北岳の墨樺から流れ出る野呂川、つまり早川の上流は西山温泉や奈良田付近に素晴らしく渓流魚が棲み、そして形が
前へ 次へ
全11ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
佐藤 垢石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング