》に、朱に染めた頭を集めて男体と女体が、この浩遠《こうえん》な眺めを覗きながら、自然の悠久を無言に語り合っている。草薙山の方に近い密林の中に、早春の雄鹿が嬉々《きき》と鳴く。
 湯滝の滝壺は、まだ夜が明けきれない。絶壁と緑樹が朝陽を遮《さえぎ》って残りの闇《やみ》が、地面を淡墨に漂う。だが、滝の岩頭には朝がきた。瀑《ばく》は真っ白な飛沫をこまやかにちらして、大空を落下してくる。澄白と薄明の対照だ。
 滝壺の瀬尻のせせらぎに、ガバと波紋を描いたものがある。それは、虹鱒《にじます》であろう。かげろう[#「かげろう」に傍点]の羽虫を餌として、鈎《はり》を瀬脇に投げ込めば、瞬間にグッとくる。確《しか》と餌を食い込んだのだ。竿も折れよとばかりの強引である。ようやくにして水面へ抜きあげ、手網にとって見た虹鱒、銀青色の横腹に紅殻《べにがら》を刷いたような彩《いろどり》、山の魚は美しい。
 湯の湖へは姫鱒《ひめます》、湯川へは川鱒《かわます》と虹鱒《にじます》を、帝室林野局で年々数多く放流している。冷徹《れいてつ》な峡間は、湯滝の下に苔生《こけむ》した天然林を抜け出して、戦場ヶ原を幾《いく》曲がり、龍頭《りゅうず》の滝を落ちて中禅寺湖へ注いでいるが、ここは渓流魚釣りの練習場として、まことに好適の流れである。

       五

 上越国境は、渓流魚の巣であるかも知れない。清水トンネルの下を流れる湯桧曾《ゆびそ》川、谷川岳から出る谷川、万太郎川から越後へ走る魚野川。何《いず》れも岩魚の姿が濃い。
 尾瀬ヶ原へは、春の訪れが遅い。尾瀬沼と尾瀬ヶ原を結ぶ沼尻川、燧《ひうち》岳の西を流れる只見川の岩魚は、この頃ようやく冬の眠りから覚めたくらいであろう。片品川の本流と、根羽川には山女魚と岩魚混じりで大ものがいる。鳩待峠の方から、冷たい水を集めてくる笠科川の岩魚は、凄《すご》いほど勇敢に餌に向かってくるのである。
 菅沼と丸沼の水を集めて、金精峠から西に向かい片品川へ落ちこむ大尻川には、今年山女魚と岩魚が多かった。片品川と、大尻川の合する鎌田の村から下流は二尺に近い巨大な鱒が棲んでいて、時どき竿を引き折って釣り人をあっと驚かす。
 この付近、南の空に大赤城の聳立《しょうりつ》するあり、東には奥白根、西には武尊《ほたか》、北に燧《ひうち》岳を控えて雲の行きかいに、うたた山旅の情を惹《ひ》くもの
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