雪代山女魚
佐藤垢石
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)仙水《せんすい》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)夕|陽《ひ》が
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「魚+完」、第4水準2−93−48]
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一
奥山の仙水《せんすい》に、山女魚《やまめ》を釣るほんとうの季節がきた。
早春、崖の南側の陽《ひ》だまりに、蕗《ふき》の薹《とう》が立つ頃になると、渓間の佳饌《かせん》山女魚は、俄《にわか》に食趣をそそるのである。その濃淡な味感を想うとき、嗜欲《しよく》の情そぞろに起こって、我が肉虜おのずから肥ゆるを覚えるのである。けれど、この清冷肌に徹する流水に泳ぐ山女魚の鮮脂を賞喫する道楽は、深渓を探る釣り人にばかり恵まれた奢《おご》りであろう。水際の猫楊《ねこやなぎ》の花が鵞毛のように水上を飛ぶ風景と、端麗神姫に似た山女魚の姿を眼に描けば、耽味の奢り舌に蘇りきたるを禁じ得ないのである。
青銀色の、鱗の底から光る薄墨ぼかしの紫は、瓔珞《ようらく》の面に浮く艶やかに受ける印象と同じだ。魚体の両側に正しく並んだ十三個ずつの小判型した濃紺の斑点は、渓流の美姫への贈物として、水の精から頂戴した心尽くしの麗装に違いない。しかも藍色の背肌に、朱玉をちりばめしにも似て点在する小さく丸い紅のまだらは、ひとしお山女魚の姿容を飾っている。黒く大きい、くるくるとした眼、滑らかに丸い頭、あらゆる淡水魚のうち、山女魚ほどの身だしなみは、他に類を求め得られまいと思う。
渓のなぎさに、葦の芽がすくすくと伸びた早春の頃は、数多く山女魚が釣れる。山の釣り人はこれを雪代《ゆきしろ》山女魚といっている。また、肉充ち脂乗って、味覚に溶け込む風趣を持ってくるのは、初夏から、渓水の涼風肌を慰める土用頃である。これを至味の変と言う。
近年、都会人に渓流魚釣りの技が普及して、三月の声を聞くともう、魚籠《びく》を腰にして東京に近い渓谷へ我れも我れもと分け入り、重たいほど釣り溜めて帰ってくる。そして、渓流魚釣りは世間で言うほどむずかしいものではない、と語るが渓流魚釣りの真髄を味わい得るのは、山女魚の活動が敏捷になった初夏の候、谷の流れが澄明《ち
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