側へ深い峡谷を刻んでいっているのである。
谷が深ければ、渓を掩う樹木は密生する。樹木が多ければ、地肌に当たる陽の力は自然に弱くなって雪は夏遅くまで残っている。それが因となり果となって、一方はますます山が深くなっていくのに反して、裏は山が浅くなっていく傾向を持っている。
だから、少し注意深い人であるならば気付くであろうが、概して裏日本側の水源は渓をなしているが、表日本側の水源は流れをなしているのである。
結論というのも変であるが、陽当たりのいい地方の川と、悪い地方の川。ここに水源の高低が分かれるのであろう。
それから、前段に耕地が山奥深く開けているということを言ったが、その川の流域に耕地が多ければ多いほどその川の水温は高くなるのである。昔から裏日本には水田が広く拓けていた。ところが表日本は冬陽当たりがよく暖かいにも拘わらず水田が少なかったのである。
その意味から、富士川は表日本にあるのであるが、甲府盆地という広い盆地を持っているために、水温が高かった。釜無川は韮崎付近までは冷たいまま流れてくるが、盆地へ出ると急に水が温《ぬる》んでしまう。笛吹川も、雁坂の峠の東を出て日下部付近までは冷たいが、石和へくると段々湯のようである。そして富士川は、鰍沢を出て再び峡谷に入るのであるが、流れは温かのままである。
那珂川もそうである。栃木県の塩谷、那須、芳賀の三郡に拓けた耕地から、広く浅く陽を受けた温かい水が絶えず注いでいては、他の川のように、いつまでも冷たい水温を保っていられないのは当然である。長倉の峡を下《くだ》って茨城県へ入れば、一層水温が高くなるといっていい。
この二川は、表日本の異例であろうか。
黒部川は、裏日本の特例である。断層によってできた飛騨山脈の割れ目を、北へ流れる黒部川は雪が深いうえに、陽当たりの悪い川である。屈曲が多く谷が深い。そして水面を掩う樹葉は敷き詰めたようである。流域の耕地は、まことに少ないのである。水温の低い所以《ゆえん》である。
興津川は、鮎の棲む川として、太平洋へ注ぐもののうち最も流程の短い一つである。この川の流域も耕地が少ないのである。それに小さい川にも拘わらず、大河に似た相を持っていて崖が高く屈曲が多い。あのくらいの長さの川では、水温が高い上に、水質が悪く到底鮎など棲み得られるものではないが、この川は水温が比較的低いので、立派な鮎が数多く育つ。
雪との関係こそないが、そして川の大小の差こそあるが、越中の黒部川と裏と表の好一対である。
二
くだらない水温のことを、なぜ長々と書いたか。
私は、水温と魚の質、殊に味との関係に深い興味を持っているからである。
鮎は、水温の高い川に好んで棲む魚である。静岡の安倍川や、小田原の酒匂川は、六月過ぎて水を水田へ引き上げる頃になると、川は枯れて水温は非常に高くなる。二十五度を超えて、三十度近くにもなることがある。三十度近くなると、もう日向《ひなた》水と同じな温《ぬる》さを持ってくるのである。鮎でも、鮒でも入れればすぐ死にそうな、こうした温かい川で鮎は盛んに水垢を食っている。時には、思いもよらない浅い場所で、友釣りに掛かることがある。温かい水を好むためであろう。
だから水温の低い川へ遡らないかといえばそうでない。利根川は中部日本では、最も水温の低い川である。五月下旬から六月上旬、鮎の遡上の最も盛りだという頃、九度から十一、二度を往復している。銚子口や江戸口から、海で育った小鮎が淡水に向かう三月下旬から、四月中旬へかけては、雪解け水の出はじめた頃で、それよりも、もっとも水温が低いのである。それでさえも、小鮎は上流へ、上流へと遡っていく。
そして、遡り詰めたところは、水上温泉の下流、小松の発電所の付近である。でなければ支流の片品川の吹割の滝の下流、岩室付近である。近年、上毛電力の堰堤が糸の瀬にできて遡れなくはなったが――。この付近の水温は、七月中旬から、八月中旬にかけて真夏の日中でも二十一、二度を超えることができない。また夕方は早く水から上がらなければ、慄えてしまう。それでも鮎は大きく育つ。
この辺は、真夏|山女魚《やまめ》も一緒に棲んでいるのである。
そんな冷たい水で育った鮎の味はというと、それは上等である。七、八十匁から、百匁近い大きな鮎であるにも拘わらず、肉はキッとしまって香気が高い。殊に嬉しいことは、水が冷たくなればなるほど、鮎の骨は柔らかになる。腹に片子でも持とうという成熟しきった八月末の鮎でも骨も頭もない。モリモリと頭から食える。
だから、利根川の鮎は赤谷川の合流点付近から上流でとれたものを、一番上等とされている。鮎の産地のことなどには、あまり関心を持たない――ほんとうは、知っているべき筈なのだが――大日本料理人組合連合会
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