談笑に暖かい春風が訪れたのである。その夜、私は家へ帰ってから、
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春の川 曙うつし 流れけり
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 こんな俳句みたいなものを作って、ひとりで喜んだ。
 笑って貰っては困る。いまもなお、報知新聞社は丸の内の一角に、毅然として栄華を示しているけれど、往年全国の読書界を風靡《ふうび》した時代に比べれば、いささか下り坂だけは争えない。社の古い関係者が、この姿を見て誰か嘆かぬものがあろうか。そこへ、社の古い有力な関係者が現われてきて、自分の光栄ある死華のために主家の再興に努力専念するというのであるから、報知新聞黄金時代の再来を夢みるのが当然である。
 古い関係者は、それぞれ社会に立って活動はしているが、旧い主家の左前は寂しい。故郷の村に住んでいた年月よりも、有楽町の土を踏んでいた歳月の方が比較にもならないほど長い連中ばかりであるから、なんで主家の凋落を喜ぶ者があろう。頼母木の悲壮な決意にこぞって随喜の涙を流した。
 そこで私は、心豊かな気持ちとなり四月の上旬、将棋の名人木村義雄と二人で、朝鮮旅行に赴いて、二十日すぎに帰京してみると、飛んでもない話をきかされて、狐につままれたのではないかと思った。それは、頼母木桂吉が報知新聞社長をやめて、東京市長に就任したということである。腹が立った。いまいましかった。暮れと春と、二度も眼頭を熱くして感激した己の愚かさを顧みた。
『馬鹿々々しい』
 と、私が呟くと、その話をしてくれた友人が、
『あれは、政党屋なんだよ。自分の言葉に責任は持たんのさ……』
 と、私を慰め顔にいう。
『それにしてもだ――』
 私の憤慨はなかなかとまらなかった。すると、木村義雄が、
『東京市と報知新聞社とどちらが国家的に重い位置にあるかは別問題として、自分は報知新聞社と生命を共にすると言ったのであるから、僕であったならどんな話を持ってこられようと自分の言葉のために、自分の意地のために報知新聞社を捨てないだろうと思うな』
 こう言って、憮然とするのであった。
 頼母木は、とうとう私ら若い者から批評されてしまった。頼母木の心臓はしぶとい。
 そのあとへ、社長となったのがいまの三木武吉である。
 それほど、しぶとい[#「しぶとい」に傍点]頼母木桂吉の心臓であったけれど、三木武吉の圧倒的の心臓には敵しかねた歴史がある。それは、こんな話だ。
 大正六、七年ごろであったと思う。八月の炎暑の午後、相州小田原の傍らを流れる酒匂川の川尻で、私が黒鯛を釣っていると、そこへ五十歳前後の釣り師がきて、私と並んで釣りはじめた。どういうわけか、その日はさっぱり釣れない。二人は根気がつきて、みぎわに近い砂原へ腰をおろした。そこで、私と釣り師との間に世間話がはじまった。
『こんど、牛込から素晴らしい候補者がでますよ』
 という話になった。九月には、衆議院議員の選挙があるのであるから、話題は自然にその方へ移っていったものとみえる。
『どんな人物です』
『さあ、どんな人物と言っても、まだ青年なんですがね、弁護士で、まだ三十歳をでたばかりです』
『はあ、では新候補ですね。どこか特別に偉いところがあるのですか』
『無名の弁護士ですが、ひどく義侠がありましてね、貧乏人をみると、誰にでもただで弁護してくれるんです。私は、小石川の魚屋の親爺ですが、私の仲間にも厄介になった人があるんで、同業者がみんな感謝しているような訳です』
『なんという人ですか』
『三木武吉といいますよ。しかしね、私は先だってからここの松寿園に滞在して酒匂の川尻の黒鯛を狙っているのですけれど、三木の選挙がどうなるかということを考えると、頭がこんがらがって、魚の当たりなど少しも分かりませんやね。きょう釣れないのもそのためでしょう』
『えらいご執心ですな』
 夕方の上げ潮がきたので、また熱心に釣りはじめたが、その日の収穫は、甚だ僅かであった。
 帰京してから三木武吉という名前を思いだして新聞をみると、じゃんじゃんと戦っている。相手は、やはり同じ憲政会の頼母木桂吉だ。無名の新候補が飛びだしたのでは、敵党政友会の地盤へ斬り込むのは困難であるから、専ら同志の票を食う作戦らしい。
 この選挙は、大隈内閣の運命を賭するものであったから、火花が巷に散った。
 三木はそのとき僅かに三十二歳。政党人としてはほんの駈けだしである。立候補しても選挙運動費はたった三千円しか用意できなかった。
 選挙期日の二日前、つまり明後日は投票日であるときになって、総理大臣大隈重信が、自党の候補者頼母木桂吉のために応援演説にでるという情報を、三木がききこんだ。しかも演説会場は京橋木挽町の歌舞伎座であるという話である。歌舞伎座を演説会場に使った政治家は、それまで例がない。そのはずだ。一夜に五百円という大
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