《うんざ》となったのである。
仙公狸が、一番早く詩を作った。仙公が、己の賦詩を朗読すると、名作であると賞詞を揃えて、一同は拍手したのである。もとより狸に詩を賦すことなどできるわけのものではないのであるけれど、神通力を持つ仙公だ。なにか、口の中でぶつぶつというと、それが学友達に聞こえたのかもしれない。
夢中になって歓語を交換していると、下のおかみさんが、襖の外から、先生がお見えになりましたから、ご案内しますと告げた。
連中は狼狽した。酒をのみながら芸妓を題にとって詩を作っているなどとは、学生の分際として穏やかでない。佐々木彦三郎はすぐ詩を書いた紙を丸めて、懐中へねじ込んだのである。
先生、いま一盃はじめたところです。
よかろう、青年は元気をつけねばいかん。
はっ――。
そこで瓶盞《へいせん》を改め、先生に集中攻撃を喰わした。佐々木彦三郎は、学友達が酔ったはずみになにか喋ってはまずいと考えて、手洗場へ行くふりをして、縁側へ出で二階から、例の詩の書いてある丸めた紙を懐から出し放った。擲《なげう》った紙は、墻《かき》を越えて隣の家の庭へ落ちたのである。
先生と学生らは、夜半まで痛飲して、蹌踉《そうろう》[#「蹌踉」は底本では「蹌跟」]として帰って行った。
隣の家は、芸妓置屋である。六十に近い老女が主人で、数人の妓を抱えて置くが、なかに最も美しい、若い妓は、老女の実子である。つまり娘だ。幼いときから雛妓として仕込んだけれど、賎業の方は固く禁じていた。だから芸妓であっても生娘だ。
この花街では、この娘を誰が手折るであろうということが評判になっていて、ひく手あまたである。ところが母も娘もまるでそんなことはとりあわず恬然として弾きかつ歌うのが専門であった。
名は小みどりと呼び、三絃、笛、太鼓はもちろんであるが、婦芸一般に精をだし、書を読むことも人後に落ちない。そして麗容|薔薇《ばら》を欺くというのであるから、大したものである。
翌朝、小みどりは庭下駄を突っかけて、花壇へ花を折りに出ると、墻の近くになにか丸めた紙が落ちているのを見た。拾って皺を伸ばしてみると、詩が書いてあるではないか。
詩の持つ意味は、未だ姿は見ないけれど、唄の主である自分を恋していること久しい。と、いう風にとれる。
仙公狸の方ではまだ小みどりの姿を見たことはないが、小みどりの方では、仙公が朝夕庭先を逍遥しながら、本を読んでいるのを、障子のすき間から、しばしばかいま見たことがある。
自分が毎夜宴席で接待する呑ん兵衛共とは、人種が異《ちが》うほど人品が高い。自分もやがては卑しき稼業をやめ、人間並みに天下晴れての結婚をしなければならぬのだが、婿に選ぶのなら隣に下宿しているような学生を得たい。
こんな風に、ときどき思案してきた矢先であったのだ。読み終わると、ひとりでに心臓が高く鳴るのを覚えてきた。
そこで、小みどりはこの機会を逸してはと考え、仙公の詩の韻をふみ、想いのたけを詩に表現した。そしてその日の夕方、これを白紙に書いて、仙公の室の廊下へ投げ上げたのである。
仙公が、それを拾って読んだのは、もちろんである。これはわが輩の想像以上に大した娘だ、これと結婚して、しかもわが輩の妖気を見破られなかったら儲けものである。全国の狸界に、君臨しても文句を挾《はさ》まぬ日が必ずくるであろう。
もし、看破られて、天秤棒で追いまわされたところで、尻っ尾を巻いて故郷の水沢観音の床の下へ逃げ込めば、それでよろしい。大して損はない。
二、三日過ぎた宵の口、仙公は低い声で詩を吟じながら墻のあたりをぶらついていると、それを聞きつけて、小みどりは庭へ走り出てきた。
やあやあ、お隣のお嬢さんですか。
あら、お嬢さんなんて、はずかしいわ。
仙公は、小みどりをわが室へ招じ入れたのである。小みどりは、まだおぼこであるとはいえ宴席へ侍《はべ》るのがしょうばいであるから世の生娘とは違って、大して人怖じはしない。招じられるがままに仙公の室に通ったのである。
貴嬢の詩は、大したものですなあ、女であれだけ詠めちゃあ凄い。
あら、お恥ずかしい、あなたこそ――。あたし、すっかり魅せられてしまいましたわ。
こんな次第で、二人はそれから懇《ねんご》ろに交際するようになったのである。ある日、小みどりは仙公を、訪ねてきて改めてまじめな顔になり、
あなたは、奥さんはおありなんですか。
と、だしぬけに質問を発したのである。
じょうだんじゃありません。僕はまだ学生ですよ。結婚なんてまだ将来ですよ。
あら嬉しい。でも、どうしてまだ結婚なさらないの。
この質問に、仙公返答に窮したが、
貴嬢のような美しいお方と思っているのですがね、理想の人というものは、めったにいるものではありませんからね
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